基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

プラトン『饗宴 (岩波文庫)』

プラトン。原題はシュンポシオンといい「一緒に飲む」というほどの意味とか。プラトンは名前とソクラテスファンであってソクラテスのことをいっぱい書いた最初の同人作家という認識だったのだが、この饗宴などを読むにむしろソクラテスを出しに自分自身の思想、思考を混ぜて、現実をそのまま描写しているというよりかは現実に虚構を混ぜた内容になっていると思った。

饗宴はソクラテス含む議論をする面々が一同に介し、ワインを飲みながらエロス(神)がいかに素晴らしいのか、正しく評価されていないのかを一人一人滔々と演説していく。この辺、最初のやつが一番くだらない議論をして、後に行けば行くほどそこそこ面白い演説になっていくので物語的である。そして当然最後に出てくるのは、我らがソクラテスである。

ソクラテスが最初「いやいやみなさんの演説が大変素晴らしくてわしほんまに困惑しとるっちゅーねん……」みたいに謙遜から入って「おおソクラテスダメなやつだな……」と思っていたらいつのまにか今までの演説を論理的に否定しはじめて「ねえ?そうだろう?」と追い詰めていくのがおもしろい。ソクラテスはとてもいやなやつだ。

しかし実際問題彼らは日頃から酒を飲んでぐだぐだとくだらない議論をしているように見える。そう、ギリシャでは確か奴隷制がばーん! とあって、こいつらは働かなくてもこうして酒を飲んで毎日議論に明け暮れることができた。ギリシャが知的に栄えたのも、そうした奴隷たちがいたおかげで一部の人間が知的生産に専念できたからだとどこかで聞いた。

まあ原題に生きる身からすると奴隷などと言われるとひええと思ってしまうが(アメリカの黒人奴隷が頭に浮かぶからだろうが、むしろこれは例外だ)、当時からしたらまた感覚も違うだろうな。会社にいって何時間も拘束されるのだって、傍からみたら奴隷と対して変わらない。しかも古代ギリシャにおける奴隷もその能力によって金ももらえて自分の身分を買い戻せたりもできたそうだから。

話がそれた。集まって彼らは日常的にテーマを決め、演説を行なっていたようだがあまり人数が増えて最後に出番が回されるということが亡くなって難儀しそうである。その点ソクラテスは最後になりながらも前に喋った人達を全員虚仮にするところからはじめてノリノリでやけに楽しそうだ。

それはこうやって始まる。人は何を賛美するにしても、これについての真実を語らなければならない。真実そのものの中から美しいものを選び出してできるだけ秩序よく並べなければならないのだ、それこそがソクラテスが演説において信じていたことだがうぬぼれであった……とソクラテスはいう。

なぜかといえば、ソクラテスの前に演説した人間はみな大賞に考えられるかぎりもっとも大きく、美しい性質をくっつければ、それが間違いでもそんなことは構わない、最初から話は決まっていたんだもんねえ、という。みんながそういうんだったら僕の賛美の仕方だというものを知らなかった訳だねぇと。

凄まじい皮肉であり、よく気持ちよく話してお互いにお互いを賛美しあっているぼんくらどもを前にそんなことを言えたものだな、と読んでいてびっくりしてしまった。そう、そこまでの議論はすべて「エロスはなぜ偉大なのか」に終始していた。ソクラテスはエロスはどんな性質なのかを最初に論ずる。

議論は次のように、それまでのひどく主観的な理屈が通っていない議論を尻目に、論理的に理屈っぽく展開する。エロスとは何者かへ向かう愛である。何者かへ向かう愛とは、その愛が向けられている対象を欲求する。愛とはつまり欲求である。そして欲求=愛という前提にたったとき、いったいいかなる時に欲求が起こるのかといえば対象を所有していない時、欠乏している時である。

つまりエロスとはまず第一に、何かに対して、そして欠乏を感じているものに対して存在する。エロスは醜いものを愛さず、美しいものを愛する。するとエロスは美を欠いていることになる。そうするとエロスは醜いのか? いやいやそんなことはない。美しくないものはつまり即座に見難くなるわけではない。善くないものが悪いわけではない。エロスは美しさを欠いているかもしれないが、かといって醜いわけではない、中間物なのである。

だからこそ美を求める愛でもって欠乏を埋めようとし続ける者こそがエロスなのである。愛とは善きものの所有であり幸福とは善きものの永久の所有(途中で無くなられたら幸福じゃなくなるからね)であって、だからこそ幸福であるためには不死を追求せねばならず、不死を論理的に達成するために我々は子孫を残さねばならぬという、いやそれ理屈としてはわかるけど、ところどころとんでもなく飛躍させて言ってるよなあ。

実質このあとの美についての話が話しの結論部にあたるのだろう。恐らくだが永久というのがキイワードになっていて美とはうつろうものではなく、空間的時間的なものと独立的に存在していて、僕らは一つの美しい肉体から次の美しいものへ、それが認識できたら次の美しいものへ、つまりは個々の美しいものからいづれそれらに普遍的に存在している美の本質に至ることこそが人生の生き甲斐であるというのである。

うん、まあ、なんか、よくわからないが……。そういうものなのか?? 美とはなんだろうか。社会が移り変わっても、繰り返し表れるあらゆるものの形、自然、風景が変わらないように(三角形、四角形、円、雪、山、海)そこまで深く意識されることもなく、理由もなく表れるものこそが本質的な美といえるかもしれない。

しかし完全な美など目に見えるところにはなく、そうした運動の奥にあるものを見極めるのが大事なのだといわれれば、まあそうかなという気もする。なかなか刺激的な本だった。

饗宴 (岩波文庫)

饗宴 (岩波文庫)