基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

古賀史健『20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書)』

世の中には溢れんばかりに文章講義の本が出ている。僕も何十冊も読んできた。そこまでくるともはや「自分の文章を向上させたい」という当初の動機からはかなりズレて「この文章講義は既存の文章講義とどんな違ったことを書いているのか」を中心に見ていくことになる。なにしろいくつもあるから、ほとんど差異なんてない。また、斬新な発想でまだどこにも書かれたことがないような内容ばかりで構成された文章講義も読みたくない。

本書もまた大半は先行の文章講義と同じ内容をなぞっている。読者の椅子に座る、原稿を推敲する、文章はリズムだ、構成も重要だ。もちろん中の手法、やり方までは個々人のものが書いてあるが(当たり前だ)、まあぶっちゃけそんな手法の話をされてもたいして意味はない。自分にとってぴったりのサイズの靴を選ぶように、自分の文章の書き方だってぴったりのやり方があるものだ。

だから見るべきは細かな、具体的なやり方ではなく「発想」なのだ。まあだいたい、1つぐらい違う発想がみられたら面白いかな、とそんな上から目線で読み始める。どれどれ。まず本書の「はじめに」には、文章が「うまく」なる必要などない、とある。そして「本書が第一の目標とするのは、「話せるのに書けない!」を解消することだ。」と続く。

なるほど。余談だけど僕は話すのが苦手で、かたや書くのはくだらない言葉が湯水のように流れでてくるので大変得意なのでこの時点で対象読者から外れていることがわかる。僕は書けるが話せない。というか僕以外の人は話せるのに書けないなんて本当に思っているのか? 大変疑問ではあるものの、本筋ではないのでおいておこう。

そして「はじめに」をふむふむと読み進めていった次に、新しい発想と出会った「その気持を「翻訳」しよう」という章だ。ようは「書けない」のは自分の気持ちを書こうとしているからであって、「自分の気持ちを翻訳しよう」という意識で書けば、書けるといいたいらしい。単なるレトリックではないか、書くというか翻訳するというかの違いじゃないかという気もする。

しかし実際には違うのだ。たとえば著者はフリーライターなのだが、ITやグルメといった異分野の情報を、素人にわかりやすく「翻訳する」というような言い方もしている。ようはAという情報をいかに別の人に伝達しやすいBという情報に変換するか、AをAとして書くのではなくAをBやあるいはCに変換するかを考えなければいけないのである。

↑の例も本書にはまったく書いていないことなので、僕が僕なりに考えて作った概念の翻訳ということになる。文章を書くとは翻訳することであるというのは、我が意を得たりといった感じだ。実をいうと「翻訳」とは、僕がこの批評をするわけでもないただの感想ブログを続けてきた過程で一番重要視している要素であったりする。

傑作小説を読んだあの表現のできない感動。自分以外の人間がこんなに感動し、素晴らしい体験に打ち震えたことがあっただろうかとついつい想像してしまうようなそんな一瞬の幸福を、僕はどうにかして自分以外の人にもなんとかして伝達しようと思い、書いてきたのだ。少なくとも最初の頃よりは、うまく言語化できていると信じている。

本の紹介になっていたのか微妙だけれども、この「翻訳」について書いているガイダンスの章だけは、読んでみて欲しい。

20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書)

20歳の自分に受けさせたい文章講義 (星海社新書)