基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット

大衆が社会にもたらした変転について洞察された名著。80年以上前に出版された本だけど今でも色褪せない。この当時から本書で指摘される「大衆」の持っている基本的性質は変わっていないし、それどころかそのダメな部分として指摘されているところはより増して、危機的になっていると感じる。

ホテルも、電車も、都市も、今ではどこにいっても人が大量にいる。日本だけの現象ではないのはいうまでもない。18世紀までより19世紀はヨーロッパの人口は4倍にも増え、物理的な事象として人間の数が増えた。そして文明は豊かさを生み出して、誰もが手軽にパンを食べたり、映画を見たりといったことが出来るようになった。

これはひとつの達成といえる。豊かになって、誰もが平等になったのだ。さらにこの時代にはなかったけれど、インターネットの解放によって情報的にもみな平等になった。大衆とはオルテガの定義によれば自分自身に特殊な価値を認めず、「すべての人」と同じであると感じ、そのことに喜びを覚えるような人である。

もう少し別の表現にすると、生きることがただ風に漂うように状況に流されていくことであって、自己完成に向けての努力をしない人間であるという。また、かつての社会において、大衆は一部の優秀と言われている人たち…政治家や知的な分野に対して、欠点や欠陥にも関わらず自分たちよりかはよく知っていると考えていた。

それが今では大衆は自分たちが喫茶店や飲み屋で話した結論を実社会に強制し、それに法の力を与える権利を持っていると信じている。むかしは少数の優秀者のみに開かれていた施設を使い、権利もいただき、大衆は大衆であることをやめて支配権をふるうに至ったのである。今日の特徴は大衆が大衆で凡庸であることを自覚しながら、それを貫徹しようとするところにある。

もっとも大衆があらゆる選択をとれるようになったんはとてもいいことのように思うし、本書でもそう肯定されている。僕は社会の進むべき道とは選択肢の多様さであり、自分の足にぴったりあうような靴を選ぶように仕事を選び、服を選び、起きる時間や寝る時間を決め、全てにおいて自分にぴったりの生き方を選択できるようになることだと思う。

しかし問題はある。その両面を暴いていくのが本書の内幕であり、これと同時にもっと大きな流れ──生きるとは何か、近代文化の根本的な欠陥は何かといったもう一段階踏み込んだ部分への考察へと踏み込んでいく。ともあれまずは大衆が今まで社会を牽引してきた少数者が大衆に対してマシな案を提示し、大衆はただそれに従って人生を計画していくというシステムが大衆支配システムに置換されたことの何が問題なのかが気になるだろう。

まずは大衆の説明から。本書でいうところの「大衆」とはなにかといえば、それは労働者階級と知的生産を行う階級──といった区別ではわけられない。現に専門家や科学者もまた、その専門がより細分化されていく過程で「一部を知ったことで自分は知識のある人間だと思い、他の分野にまで知っている顔をする」ことを批判して「大衆人の典型」と言わしめる。

ようは大衆とは上層階級と一般階級という階級区別ではなく、質的なものであると定義される。進んで困難と義務を負い、前進しようとする人々が「真の貴族」であり、大衆とは他のすべてと同一であることに喜びを見出し、自分自身に特殊な価値を見出さず、自己完成への努力をまったくしないような人間である。

18世紀から19世紀にかけての時代は、人口が増大し科学へと信頼が傾倒し、実際に技術的に人間生活が豊かになりはじめた時代である。19世紀生まれの人間にとってはそうした技術や大衆がたいして能力もない大衆として支配権を与えられているものとして、既に生まれながらに存在しているものであった。

もちろん21世紀を生きる人間からすればそれはもっと推し進められた形で目の前に展開している。パソコンもあれば電気も完全に通っている。パンを入れてスイッチを押せばパンが自動的に焼きあがる。冷蔵庫はずっと食べものを冷やしてくれるし、温めようと思えばそのすぐとなりには電子レンジがある。でもその仕組みは自分で考えたものでもなく最初からあったものだ。

19世紀の時代人はそれを空気のように当たり前のものだと思い込んだ。しかもそんな者を自由に使える自分たちの時代は全歴史における頂点だと思い込んでいることから、歴史への敬意を忘れ、これを生み出している科学への敬意と興味も忘れる。自分たちが大衆であり支配権を持っていることから自分が自律的自足的な人間であることを錯覚し人の意見に耳を傾けず、それどころか自分の意見を押し付ける存在になったのである

『現代の大衆人は文明世界の中に突如おどり出た未開人であり、「野蛮人」なのである。』たしかに。文明なんて産まれた時からあるのが当たり前で、感謝することもなく、これを実際に動かしている科学や技術に興味を持つ人間も、その恩恵からすればあまりにも少ない。本来文系理系の関係なく、科学的なことへの興味も持っていなければいけないはずなのに。

そしてそんな未来への改革を志さず、ただ無計画に状況に流されるだけの大衆が支配権を握っているんだから「社会はどこにもいかないし、社会のデザインは描けない」、さらに先に書いたような「過去と現実を支えている文明への敬意」が失われてしまった現在、繁栄しているように見えてもこの先はヤバイんじゃね? というようなことをいう。

いやまったくだよね。ちょっと読んでいて恐ろしくなってしまった。なんかこの文明とか政治とか金融システムとか、ぐだぐだだけど何事もなく進んでいくよね〜ぐらいに気楽に考えていたけれど、民主主義は何も決定できないことが明白になってきているし金融システムは虚構の金が増えすぎて意味分かんないことになっているし、いったん大きく崩れたらヤバイかもしんない。

オルテガ歴史認識の再生を提唱している。歴史とは自分の背後に多くの過去、経験を持つことであり、現代社会はその経験をすべて飲み干した上で新たな価値創造を行なっていかなければならないと。まあ歴史だけではなく、今現実を動かしているものへの興味も持たなければならないだろう。

それにしたって大衆が大衆として変わらないものであるとしたら仕組みを変えなければどうしようもなさそうなものだけれど、まあ本書は別に解決法を明確に提示し、新たな時代を導く本ではない。あくまでも1930年台からみた、ヨーロッパの大衆像を分析した本なのだ。そして今日本に考えを応用できる部分も多い。

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)