基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

なぜ本を読むのか

「なぜ本を読むのか」などと、読書を日常の動作とし、趣味をこえて生き方にまで干渉している人間が言い始めたらそれはひとつの異常事態である。が、何を隠そうこの僕こそがこの数カ月「いったい自分はなんでこんなアホみたいに本を読んでいるんだろう」「アホなんじゃないか」「たぶんアホなんだ」と自問自答しこのままでは読書をやめてしまうのではないかと危惧するほどだった。

その間もずっと多少テンションが落ちていたとはいえ楽しく本を読んでブログを書いていたんだから、一時の気の迷いで何事もなかったような気もするのだけど。それこそこんな記事を書いてしまうぐらいに⇒本をたくさん読んでもまったく偉くならないし、凄くなるわけでもないし、金が稼げるわけでもない。 - 基本読書本を読む意味ってなんなんだ?? と考え込んでいたのである。

もっともこの記事は月に何十冊も読むような多読にあこがれている人達に「冊数なんてなんの意味もないんだよ。問題なのはどれだけの中身があるのかであって、自分がそこからどれだけたくさんのことを読み取れるかなんだよ」ということを言いたかったもので、僕自身の鬱屈とはあまり関係ないんだけど、でもこの記事を書いたおかげで自分の振り返りにもなって良い効果があった。

そう、僕の読書鬱期というのは中身のない本を読み、あまりにも読み取れない自分への嫌悪だったのかもしれない。しかし最近こんな本を読んで⇒人はいかに学ぶか―日常的認知の世界 (中公新書) - 基本読書、自分の好奇心に素直になって、もう一度じっくり学びを始めようかというスカっとした気分になった。端的にいえば人がいちばん効率良く学ぶのは、好奇心の赴くままに疑問を追求していくときなのである。

ようは学びたかったら、学びたいものを好きになればいい。そして読むときにはできるだけ深く読み込む……疑問をだして、ひとつひとつしっかりと定着させ、自分なりの考えを出していく。その為にもどちらかといえばこれからは古典化している少し古いが、それだけに中身の充実は保証されている本を読んでいこうと、当たり前のことをちゃんとやろうと思った。

また最近はKindleのおかげで、洋書まで読めるようになった(単語の意味を指を合わせるだけで調べられるので、速度を落とさずに読める)のも僕の読書を広めてくれた。洋書は今までほとんど視界に入らなかったのだが、読めるという前提でKindleストアを眺めてみれば、あれも読みたいしこれも読みたい、未読で興味のある世界が驚くほど広がっている。

こうした2つの転換があって、偶然だが見事年もあけ、僕の鬱期も晴れた。何より洋書が読めるようになったことで世界が一気に広がったし、時間を気にせず一冊に時間を費やすようになったのも読むのを楽しくさせてくれる。まだこんなに楽しいことがあったのか、という気分だ。

「なぜこんなことをやっているのか」と自問自答した時に、趣味は終わってしまうのだと思っていた。テニスだろうが将棋だろうが何をやろうが「なぜこんなことをやっているのか」なんて問い出したら終わりだ。楽しいからやっていたのであって、そんな理由をわざわざ考えなくちゃ何かを続けられなくなった時点で趣味としての楽しさは失われているのだ。

しかし「なぜ本を読むのか」には今なら自信をもってこう答えられる。「それはただただ楽しいからだよ」と。