翻訳家である柴田元幸さんによるタイトルそのまま翻訳教室。
東大文学部で行われた柴田さんの翻訳授業をそのまま本にしている。この本についてはあまり説明はいらない。毎回文学の訳すお題をだし、学生たちはそれをがんばって訳してきて、授業では柴田さんが学生訳をみながら、ここはこうした方がいいね、あるいはこうしたほうがいいんじゃなかろうかと提案し、学生の方からも意見をつのり、ディスカッション形式で翻訳を進めていく。
これを読むと東大生ってのはけっこう凄いもんだなと思うはずだ。世界の大学ランキング(何のランキングだよ)ではあまり高くない、日本の最高学府なのにダメダメじゃないかといわれることもあるけれど、少なくともその中にいる人たちは日本のトップなわけで、それはシンプルな事実なわけである。
東大生のことなんかどうでもよかった。そうした授業を、こうして文庫で追体験できるというのは非常に楽しい経験である。僕もお題を自分でいったんあたまのなかで訳しながら読んだのだが、ぜんぜん間違っていたり、非常に参考になる意見があったり、実際に自分もそこで授業を受けているかのように楽しむことができた。
いや、翻訳って難しいね。唯一絶対の正解などない。ただし間違いは厳然としてあるから、講師である柴田さんはそうした間違いを指摘し、いくつかの正解があることをディスカッションで認識させていく手助けをしてくれる。普通に英語の勉強にもなるすぐれものだ。I belive youとI belive in youの具体的な違いがあるなんて知らなかったもんな。
なにしろ読む分にはしょうじきいってそうした細かい違いはあまり問題にならない。INがないほうは「君の言っていることを信じる」ぐらいの意味、相手の言っていることに対して肯定の意を示すぐらいのことだけど、IN YOUになるともっとずっと意味が大きく、「君という人を信じている」という強い意味になるのだという。
また存在を信じるもbelive in. 神の存在を信じるか? だとDo you belive God? ではなくDo you belive in God? になるのだという。まあこんな感じで、落とし穴を一個一個つぶしていってくれる、ふらふらと道を適当に走っているところをまっすぐにしてくれるようなスタビライザーとして、柴田さんの仕事は誠実なものだった。
ボーナストラックとしては、今をときめく村上春樹さんが授業にでて、学生の質問をがんがん受け付けていてこれもたいへんおもしろかった。質問は鋭い前提を踏まえたものが多く、これだけの情報量の質疑応答は海外のインタビューで稀ではないか。海外のインタビューと比べると、日本のインタビューはたいてい比較にならないほどつまらなくなる。
ちなみに翻訳についてだけではなく、自作についても語ってくれている。今まで聞いたことのない驚きの事実もあったりする。既存の文体から脱するため、英語でデビュー作を書いてから日本語に訳し直したというような伝説が村上春樹にはあるけれど「実際はただタイプライターで書きたかっただけ」なのだという。しかも難しいから途中でやめたという。
まあ、そらそうだよなあと思うほか無い。めんどくさいものね。そうか、その頃はまだ日本語のタイプライターがなかったのだなとも感慨深い。インターネットとか以前の問題で、キーボードがなかったらこれだけ大勢の人が文章を書くこともなかっただろうし、産まれなかった作家も大勢いただろう。
翻訳をしている人は間違いなく一番本書を楽しめるだろうし、たんに英語を読むのが好きな人間は二番目ぐらいに楽しめるだろうし、英語なんてまったく興味がない、読む気もないという人はあまり楽しめないだろう。でもそれぐらいターゲットがわかりやすい本でもあるし、その分当てはまる人には十全に楽しい一冊なので、自分が当てはまると思う人は読んでみたらいいと思う。
- 作者: 柴田元幸
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2013/04/05
- メディア: 文庫
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