基本読書

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知とは何か『集合知とは何か - ネット時代の「知」のゆくえ (中公新書)』

「知とは何か」という問いかけ、そして今後の時代の「知はどのような形態をとっていくのか」について書かれた一冊。知についての議論で「これまで」と「現状」と「これから」が短くコンパクトにまとまっていて、非常に刺激的だった。。

集合知とは何かを問う前にまずしなければいけない問いがあるわけだけど、それが「知とは何か」である。実際本書はこの一文ではじまる⇒『「知とは何か」という問いかけは、決して、暇つぶしのペダンティックな質問などではない。むしろ、命がけの生の実践にかかわる問いかけなのだ。』知とは何かを定義してはじめて、では集合知とはなんなのかという話になる。

今はネットで誰もが割かし簡単につながれるので「集合知」という言葉がかなりの期待をもって使われている状況がある。みんなの意見を合わせれば、専門家よりも正しい意見が出る事例をたくさん集めた本が一時期よく売れたりもした。『「みんなの意見」は案外正しい』ではそのあたりのことが豊富な事例として紹介されていて、なかなか楽しい一冊なのだけど、しかし集合知とは何もかも解決できる万能ツールではないのだ、というところから本書の「集合知」についての話ははじまる。

たとえば『「みんなの意見」は案外正しい』では、クイズ$ミリオネアをとりあげる。このゲームでは、クイズゲーム中に「詳しそうな友人(専門家)」に聞くか、「会場のアンケート」に頼るかといった特別な手札を切ることが出来るのだが、正答率をみると会場アンケートの方がかなり高い割合を示す(アンケートは91% 専門家は65%)。これはクイズに限った話ではなく、雄牛の体重をあてるとか、瓶に入ったジェリービーンズの数をあてるといったことでもその効果を発揮する。

意外とみんなの意見を集約すると正しいようだ。しかしそうした問いかけはすべて「絶対的に正しい答えが存在していて」「回答者が充分に傾向がばらけていて」「それを推定することのできるモデルを自身の中に持っている」といった微妙にめんどうくさい前提が必要なのである。たとえば「日本の少子化を止めるにはどうしたらいいのか」といったたった一つの答えがでない問いを、こうした集合知でクリアしようとしてもうまくいかないだろう。

さて──じゃあ集合知とは「限定的な場でしか使えないツールですよ」というのが本書の結論なのかといえば、そんなわけがあるはずもなく。むしろただの話の導入である。そこで話は「知とは何か」といった問題に戻ってくる。端的に引用すれば『知というのは、根源的には、生命体が生きるための実践活動と切り離せない。』

生命体は自己循環的にルールを決める。経験をし、自分の主観で世界を観、そこから得た経験を自分の中で解釈し、自分の次の行動につなげていく。生命体はコンピュータのように、外部から命令が与えられて行動を起こすのではなく、あくまでも自立的に自身の行動を決定する。そしてその反応は、常に同じとは限らない。常に自己循環的に、異なった反応を返す可能性がある。

というのも、知は主観的なものだからだ。環世界という言葉があるが⇒世界認識はひとつじゃない『動物と人間の世界認識―イリュージョンなしに世界は見えない 』日高 敏隆 - 基本読書 それは端的に言えば「誰もが見ている世界は異なっている」ということだ。世界には紫外線があるのに人間にはみえない。蝶にはみえている。つまりそれぞれ見ている世界は違うのだ。

ある人が赤といって、自分もそれが赤だとおもったとしても、その人と自分の考えている赤が同じものだとは限らない。足を骨折した時の痛みを、「痛い」とか「死ぬような痛さ」と表現することはできても、それは相手には100%伝わるわけではない。そうした「主観世界」を基礎とする世界認識こそが個々人における「知」なのである。

さて、人々の知が主観的であるにしても、人間AとBが話をするとそこにはある程度の情報伝達は可能だ。「痛い」といえばそれが具体的にどんな痛みかまではわからなくても、とにかく痛いことが伝わるだろう。アホみたいな話だが、こうした対話と協調、理解を通じて集合知へとつながっていく。でもいわれてみれば「そうだな」と頷く他ない事実である。

本書の「これから」の発想としておもしろいのが、「生命体を機械化していく」のではなく、「生命体を機械でサポートする」形こそが重要であると繰り返し説いていく点だ。このあたり、正直ちょっと理解できていないところがあるのでうまく書けないのだが、主観的な知で構成されている「閉鎖システム」である人間と、開放されパターン化された入出力を持つコンピュータのような「開放システム」とでは、折り合いが悪いという話。

ネットの直接民主制でも、人間の仕事を機械で置き換えていくこともそうだが、人間的な「閉鎖システム」でまかなっていたところを「開放システム」に置き換えても、うまくいかないことが多々出てくる。さらにいえば「閉鎖システム」の方が、「開放システム」よりも優れている点が多々あることがシュミレーションの結果として示されるのだが──それはまた長くなってしまうので割愛。

そうはいっても僕らの世界にシステムはすっかりと根をおろしており、その有用性はすでに広く知れ渡っている。問題は「システム」そのものにあるのではなく、システムをつかって「システム的な世界を構築すること」にある(のだと思う。)透明でフラット、どんな情報も開示されており、かつグローバルな世界──素晴らしい言葉の羅列に思えるが、人間の本質にはそぐわないのである。

だから本書の「これから」として提示される「集合知を支援するIT」とは、その最も本質的なところでは個人同士、集団同士をむすび、コミュニケーションの密度をあげ、活性化していくものになる、そしてその為の方法としては、人間の暗黙知や感性的な深層、いわゆる他者が今のところ介入できない「人間の主観的な部分」をすくいあげ、明示化するためにITを使うのだ、となる。

ここでじゃっかん疑問に思うのが、そのコミュニケーションの密度をあげ、活性化していくことをもう少し具体的に語るんが暗黙知や感性的な深層のすくいあげ、明示化するような機能としてITに求められている点だ。あれ、さっきは「人間集団の中に閉鎖性があるからこそうまくいく」といっていたのに、今度はその閉鎖性のようなところを開放性のほうによせてしまってもいいのだろうか?

まあ、ここはバランスなんだろうね。開放しすぎても問題があるし、閉鎖的すぎても問題は起こる。そして否が応にも周囲にシステムが入り交じって、そうした世界で生きている以上、システムという開放システムと主観的な知という閉鎖システムを、うまくおりあわせて、人間の力を増幅させていかなければいけない。

実際、現在世界最強のチェス・プレーヤーは、実はコンピュータではない。当然ながら人間でもなく、何かといえばコンピュータを使った人間のチームであるという。*1。いかにしてうまい具合に、機械と協調していくのかが今後の焦点であることはいうまでもない。

*1:機械との競争を参照。