基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

高野秀行という作家

謎の独立国家ソマリランド by 高野秀行 - 基本読書 を読んでいらい、高野秀行という作家はなんて面白い本を書くんだ!! と驚いてしまい、読み漁ってきた。デビュー作である『幻獣ムベンベを追え (集英社文庫)』から『怪魚ウモッカ格闘記』『ミャンマーの柳生一族』、『アヘン王国潜入記』に『腰痛探検家』『辺境中毒!』『ワセダ三畳青春記』『移民の宴』『異国トーキョー漂流記』『未来国家ブータン』『イスラム飲酒紀行』‥‥。

謎の独立国家ソマリランドを読み終えたのが7月の9日なのでわずか10日で11冊読み終えたことになる。読むのが早くなく速読的な技法など使わない僕としては破格のハマり具合だ。

そしてまだまだ読んでいない本があるんだから楽しくて仕方がない。そう、高野秀行という作家の凄さは、どの作品においてもある一定レベルのクォリティを維持しているところにある。もちろんその謎の巨大さと、物書き技術的な意味でもっとも高みにある『謎の独立国家ソマリランド』が今のところ僕にとって最高水準であるように、その中でのランク付けはあるものの、明らかに他のノンフィクション作家とくらべて、頭ひとつ抜けて、平均的に面白いのだ。

著者自身エンタメノンフィクションとして自身の作風を売り出しているように、その中身は信じられないような危険な場所や、紛争で暴力的な意味で危険な場所だったり、あるいは未開すぎて危険だったりと深刻な場所に分け入っていくにもかかわらず軽やかだ。おちゃらけ文体といってもいいかもしれない。ただしこの文体も他に見たこともない個性的な文体で、デビュー作でそれ以前にはろくに文章も書いていなかったというデビュー作『幻獣ムベンベを追え (集英社文庫)』でさえ既に確立されている。

おちゃらけ文体といったが、決してふざけているわけではない。起こったことを茶化して書く文体ではないのだ。むしろ未知の場所にわけいって、未知の体験をして、現地の文化に言葉まで覚えて、溶け込んでそのレポを行うという姿勢から出る「ありのままさ」が、そのまま「おちゃらけ」に感じられるのだと思う。それは既存の報道のやり方にも問題がある。

ありのままを書く。

たとえばたいていの場合「難民」といえば貧しくて地元を捨てて逃げてきたのだから悲惨でかわいそうで‥‥というイメージがなんとなく刷り込まれていると思う。しかし実際に難民キャンプなどにいけば、笑顔を向けてくる人が大勢いるかと思えば、そもそも誰が難民で誰が現地人なのかよくわからなかったりする。

そもそもぬくぬくと冷房が効いた部屋の中からそうした難民の話なんかを読むと「冷房もないなんてかわいそう!」みたいな(これは極端だけど)感想が出てくるわけであって、現地に暮らす人々からすれば当たり前のことなのだろう。アヘン王国でアヘン作ってたり、ジャングルでかわうそ食って暮らしてたり。

で、当然ながらそうした現地の人たちの「当然」は全く異なる常識をもった僕らからすれば「ズレまくっている」。それをシリアスに書けばジャーナリスティックな硬い文章でなんか偉い文字列みたいになるけど、それを「こんなにズレてる!!」みたいに楽しげな方向で書くと、銃火が飛び交う街の中でもげらげら笑えるようなエピソードに一転するのだ。

謎の独立国家ソマリランドでは海賊が跋扈する国の中で、『プントランドでは銃声がひっきりなしに聞こえ、著者が注意を向けると護衛の兵士が「心配するな。ガルカイヨ・ミュージックだ」と笑う』などというエピソードが紹介されるが、これだってシリアスに書くか面白く書くかでまったく印象が変わってくる。

シリアスに書かないからジャーナリスティックではないという単純な話ではないと思う。事実起こったことをシリアスに書くか、面白く書くかというのは本質ではない。それは単なる演出、方法論の違いである。面白く書くことをジャーナリスティックではないというのならばシリアスに書くことも同じ批判にさらされなければならないだろう。

シリアスに書けば、問題を問題として捉えるかもしれない。貧しい人たちがこんなにいるんですよ、この人達は悲惨なんです、と言われればおうそれは大変だなあと思う。一方で楽しく取り上げ、生活に密着した体験記を読んだ場合そこに生まれるのはある種の「共感だ」。こんな遠くの世界にいる人達なのに、なんだかとっても近く感じる。それは高野さんの演出によるひとつの効果だ。

面白そうなことを、やってみる。

そして文体だけではなく、あくまでも「面白い体験をしよう!」と自ら身体を張ってあらゆるおもしろそうな≒危険そうな場所へ突っ込んでいくのは「事実をあるがままに示す」というジャーナリズムの基礎からさらに先へと進めて、「事実をあるがままに示す。‥‥しかしその事実ができるかぎり面白くなるように突っ込み続ける」という高野秀行作品に共通する面白さに繋がっているのだ。

あまり探検記など読み比べたこともないからわからないけど、取材のためにアヘンを栽培しにいって(この時点で既におかしいが)自身がアヘン中毒になってしまい闇雲にアヘンを追い求める姿を文章にするなど、とんでもないエピソードばかりだ。あまりに出来過ぎていて、面白すぎる。最初からアヘン中毒になるのを「面白い」と思って狙ってやったんじゃないのか? と疑ってしまうぐらいだ。

ソマリランドでも海賊国家にいって実際に海賊になるための試算を始めるなど、もし海賊行為が憲法違反でなく誰にも迷惑をかけなければ絶対にやっていただろうと思わせるようなノリノリさで、とにかく「面白そうなことを、積極的に、やってみる」という姿勢がどの作品にも通底している。

現実を異化する

探検ばかりがピックアップされるし、実際にいろんな国々へ探検にいっている高野さんだが、日本にいる間に行った「探検記」も、どれも相当な面白さだ。たとえば移民の宴は日本に住む外国人たちが飯を食ってパーティしているところへ乗り込んでいく話なのだが、国ごとの食事の違い、段取りの違い、作り方の違い、そして食からみえてくる「日本での食生活事情」がみえてきくる。

ワセダ三畳青春記は、高野さんが住んでいた三畳の狭いボロアパートの奇人変人記で、珍しく外国人などがほとんど出てこない作品だがこれも面白さは保証する。世の中には変なひとが、いるところにはいるもんだなあという奇人変人揃い。大学をとっくに卒業してもまともな正職につかないような人間たちの集まりで、そうした人間がいかに「世間」とズレているか、あるいはズレていくのかといったことを書いている。

『トーキョー異国漂流記』は、日本に住むさまざまな国から集まってきた人たちのエピソードだが、彼ら彼女らの「外からみた日本」のエピソードが収録されている。これを読んでも感じるのはやっぱり、普通僕らが眺めている日本というレイヤーを、全く別の観点から捉え直すような試みだ。たとえば自動販売機が普通においてあるのが信じられない! と驚く外国人がいるけれど(これは本のエピソードではない)僕らからすればそんなのアタリマエのことだ。

完全に日本から別レイヤーで視点を提供してくれる人もいれば、あるいは日本のプロ野球にドハマリして日本人より野球に詳しい野球オタクがいたりする。溶け込んでいる人、溶け込めない人さまざまで、さまざまな「在日外国人のイメージ」を提供してくれる。馴染める人ばかりでもない。馴染まない人ばかりでもない。永住する人もいれば出て行く人もいる。その日本との関わり合い方も千差万別。

在日外国人といえば、問題ばかりが取り上げられる。でも、本当にいろいろな人がいるのだ。そうした「多様さの視点」、たとえばワセダ青春三畳記でいえば、世間慣れしていく同級生と、いつまでも青臭い日々を送っている高野さんとの対比のように、視点のバランスの取り方が凄まじくうまい。探検にいく未開の地ばかりではなく、普段生活している身近にさえも、「こんな異界があったのか!」とびっくりさせてくれる作品ばかりなのだ。

凄いところは徹底的に深く交わるところ、その為に言語を覚え、伝統に溶け込み、なんでも一緒にやるところ。そしてぎらぎらと目を光らせて(読んでいる時のイメージ)自身の持っている「テーマ」に沿った情報をあちこちから引き出そうとする、その異質な行動力と、普通人が見ないところに目を向ける「視点」と、高野秀行にしか出せない「文体」が彼の作品にしかない魅力を与えている。

高野さんの本は絶対に誰が読んでも面白い。僕が保証しよう。

とりあえずてっとり早く試してみたいという人には『独立国家ソマリランド』がやはり技術も辺境度も最も高く面白い‥‥がすごく長い。次点が『アヘン王国潜入記』のアヘン中毒記で、これは高野秀行エッセンスが最大限盛り込まれていて、長さも手頃なのでこれがちょうどいいかもしれない。次がジャンルは異なるものの『ワセダ三畳青春記』というさっきも紹介した奇人青春記、や『異国トーキョー漂流記』だろうか。

謎の独立国家ソマリランド

謎の独立国家ソマリランド

アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

異国トーキョー漂流記 (集英社文庫)

異国トーキョー漂流記 (集英社文庫)

ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)

ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)