基本読書

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哲学ファンタジー:パズル・パラドックス・ロジック (ちくま学芸文庫) by レイモンド・スマリヤン

ちくま学芸文庫で新たに出されていて、訳者が◯◯の限界シリーズの高橋昌一郎さんということで手にとったのだけど、これがたいへん愉快かつ面白かった。著者のレイモンド・スマリヤンという方はその道では有名な存在らしい。僕は寡聞にして耳にしたことがなかった。高橋昌一郎さんの◯◯の限界シリーズにて特徴的な表現形式である◯◯主義者たちが喧々諤々と議論を繰り広げることである特定の問いかけにたいするあらゆる角度からの見解を提示してみせる方法の大元は本書なのである。

たとえば第一章においては道徳家や認識論者、快楽主義者などさまざまな主観的な主義を持った人間たちが集まってきて「あなたはなぜ正直なのか」を議論していく。ある人間は聖書に人は正直であるべきだと書いているからといい、ある人間は純粋に道徳的観点から徳の高い人間=正直であることができる でいたいといいある人間は「そうやって徳の高い=正直であること」つまり徳の高さのために正直になるというのは正直でいるのが嫌なのだといってみたりする。

さまざまな主張があり、どこか一点に収束していくものではない。軽妙なやり取りにくるまれているがみな「自分自身の主義」といったものの代表者として設定されており議論は整理されて明確にその枠を広げ、読み手の認識を広げていってくれる。これがまた、ややこしい問題を明快にしてくれる捌き方で素晴らしいのだ。

この表現形式についての著者のあとがきがおもしろかった。著者がいうには、提案されている哲学の方法は原理として次のようになるという。『論敵の間違いを証明しようとするよりも、どのような意味で彼が正しいのかを見つける努力をせよ。』これだけ読んでも意味がわからないだろう。その前提として説明するのが「完全世界観」という仮定である。

内部に完全に矛盾のない世界観を持っていると信じている二者がいるとする。過去から現在まですべてにおいて論理的に矛盾しない。しかしこの二者は同じ世界観を持っているとは限らないとする。この二者がお互いの論理をぶつけあうのは意味が無い(自分の方が正しいから)。しかし二人が一緒に哲学的に思考することには価値がある。

Aさんが自分の論理をつかって話す時、それはBさんにとっては意味不明なことかもしれないがAさんの中では完全に解釈されなんらかの意味があるはずで、Aさんにとってはそれはすべて真実である。そしてBさんのそれと完全に合わさることはないので、Bさんはそれに反論することが出来る。しかしAさんにとっては完璧な論理なので正しいと信じている。これをBさんが正確に表現すると「私たちの使っている言語の私の解釈に基づけば、君は間違っている」となる。

言語をただ再解釈するだけで、あなたが実在世界について述べる発言は、すべて真になるのである。仮に、あなたが、実在世界、真理や意味といった概念自体を否定したとしても、ある解釈に基づけば、その発言はやはりこの実在世界において真となり、しかも私にとって大変興味深く、価値ある発言であるように思えるのである。つまり、重要なことは、数学的な言葉を使えば、私の言語内にあなたの言語モデルを構築することなのである。もう少し簡単に、かつおもしろく言い換えれば、これはつまり、私があなたの目を透して世界を見るということである。

これは僕が読んで「この主義主張が一定に設定された対話論は認識を広げるのに最適だ」と感じていたところに与えてくれる最適な解答であった。たとえ明らかに間違っていたとしても、ある主義主張の持ち主が、自身の世界解釈において一貫した論理をはってくるのであれば、それはまったくそれと相容れない側の人間にとっても、世界への理解を広めるのである。これはそのまま世界観を広げる、といってもいい。

最初に引用した著者の言葉は次のようなものだった。『論敵の間違いを証明しようとするよりも、どのような意味で彼が正しいのかを見つける努力をせよ。』さまざまな主義者が登場する対話論は、こうした個々人の中に存在するせ「世界ルール」を把握し、世界に存在する認識を拡張していく試みである。者の考え方、世界の認識の仕方において、蒙を啓かせてもらった。