基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

死ぬことと見つけたり by 隆慶一郎

隆慶一郎氏による一冊(上下巻だから二冊だけど)。うわあこれは名著だ。素晴らしい。先日葉隠入門 (新潮文庫) by 三島由紀夫 - 基本読書を読んだばかりで、その一息で踏み込んでくるような文章に一瞬で引き込まれてしまう。署名である「死ぬことと見つけたり」は葉隠の有名な一節からとられている。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬほうに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。」

隆慶一郎氏による『死ぬことと見つけたり』は、まさに葉隠が説いたような「武士」であった人間の物語だ。葉隠で協調されるのは「武士であるとはどういう心持ちであるべきなのか」という矜持である。そこにあるのはひたすら苛烈な内容であり、いかに斬り合いや切腹が身近にあった武士といえども臆病風に吹かれることもあれば「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」といったことを内面化することなどできない人間もいただろう。

武士がいくらでもいる時代にあっても、真の武士でいることは大変むずかしいことであったに違いない。だからこそ本書では、そうした葉隠的武士像を極度に内面化させた一人の男を通して世界を描いていく。誰も彼もに一目置かれ、誰も彼もがその男の動作に目を見張らずにはいられない。常に「死人」として死を当たり前のものと受け入れている男は、どんな場面でも自分の死の避けたさに判断を誤ったりしない。

「現代に武士がきてその価値観とのギャップでてんやわんや!」みたいな日常を書いた物語がいくつも世には出てきたけれども、武士がそこらにあふれている時代にあってさえも葉隠的武士の存在は異様にうつる(小説だから実際どうだったかは知らないが。)。そしてそうしたギャップの面白さは現代を舞台にした時とそう代わりはない。

そしてこの本の面白さは、そうした「武士が大勢いる中にあっても特別な存在」が、闊達に武士の精神世界の中を歩きまわって破壊していくさまにあると思う。一言でいえば「自由」であり、苛烈なまでのその生き方がたまらなく美しい。常に「死んでいる」ということは、なんの屈託もなく死地へ赴くということであり、目標があるときはたとえ腕をなくそうが30秒後に死のうがそれを果たす道筋を辿り、その結果命を拾ったとしても「まるで関係ありませんんああ」とばかりにケロリとしている。

ある目標を達成しようと考えた時に、「死ぬことに何一つ躊躇を持たない人間」がとりえる作戦は、「自分の身を守らねばならない」と考える人間より、ずっと広く、自由なのだ。自分を損害に入れることができる人間は滅多におらず、その為そうした人間の行動は既存の価値観では計り知れない、予測できないものになる。大半の人間が「自分を守る」ために思考を制限させるからである。

そうした思考、行動の枷を外すことが出来るのは一貫して中心人物として描かれる斎藤杢之助だけではなく、その相棒萬右衛門に、殿に対して耳に痛いことを言い続けてその結果死ぬことこそが「武士である」とした「稀代の憎まれ者」とその志を継ぐ息子など、魅力的な人間に満ちている。

今更言うことでもないような気がするけれど、とにかく武士の精神性というのは現代の感覚から捉えても、他のどんな国の歴史を見渡しても見ることができないぐらい異常だ。何かあればすぐに恥だなんだのといって相手を斬り殺して、そのまま切腹して死ぬ、決闘を申し込んで逃げたりすればもはやその藩にはいられないわ、たとえ決闘の上であっても相手を殺せば切腹して死ぬ。

死が軽いわけではないのだと思う。そりゃ、死が軽いわけがない。死んだらそこでおしまいである。これは死が軽いというよりかは、恥を晒されることへの責任というか、拒絶感が死を通り越して異常に重いのだと考えるべきだろう。

いってみれば「恥」の文化であり、生き残って恥を晒すぐらいならば、たとえ犬死であろうとも死んだほうがいくらかマシであり、だからこそ「生きるべきか死ぬべきか迷ったら、死ぬべきだ」と葉隠では断言されているのである。これは「恥を晒す可能性があるんだったら死んでおいた方が安全側だよ」みたいな意味であって、こうした価値観にふれると自分の価値観が揺さぶられる。

生きるべきか死ぬべきか迷ったら死ねという、この思想を貫徹することが難しいのは、明らかに「生きる」方が得であり、だからこそみんな「生きる」方へやたらと理屈をこねたがるのである。考えてみればそんなこと当たり前なのであって、冷静に考えると武士がやたらとすぐに腹を切ったり恥をかかされたといって一瞬で殺し合いを始めるのは不合理極まりない。

だが葉隠に一貫した考えというのは、そうした死は損であり生は特であるとする損得勘定によって自分自身の「死にたくない」という臆病をもっともらしくとりつくろうことはあさましいということだ。こうした身体のおびえを思想によってもっともらしくとりつくろうその姿勢のことを葉隠の作者である常朝は「すくたるる」とよんでいる。

しかしただでさえそこら中にデス・フラグが立っているというのにそんな精神性でもって日々を過ごしていたら、一手間違えれば即デッドエンドだ。しかもセーブポイントなしでやり直し不可という限りなくクソゲーに近い過酷なデスゲームに放り込まれているのがこの世界の武士であって、その中を隆慶一郎が描写する葉隠武士たちは自由に泳ぐ。

『ことの大小を問わず、理由の正逆を問わず、一瞬に己のすべてを賭けて悔いることがない。正に頸列としかいいようのない生きざまである。』全編を通してこんな男が事件に首を突っ込み、問題を解決し時代の荒波にもまれていくのだから、武士道がどうだと言わずにもうストーリーとして楽しくて仕方がない。日本の、それもある一時だけに奇跡的に成立することができた固有の深い精神性を持った英雄譚でありこんな文化、こんな男たちが本当にいたのだと想像するだけで、この世界が格段に面白くなるのだ。

死ぬことと見つけたり〈上〉 (新潮文庫)

死ぬことと見つけたり〈上〉 (新潮文庫)

死ぬことと見つけたり〈下〉 (新潮文庫)

死ぬことと見つけたり〈下〉 (新潮文庫)