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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

獣の奏者 外伝 刹那 (講談社文庫) by 上橋菜穂子

文庫版にて完結。これにて獣の奏者という物語は本当の意味で閉じた。獣の奏者は、珍しく1つのシリーズについて3つも記事を書いてしまうぐらいに、世界にハマりこんだ作品だった。アニメもやっていたので知っている方も多いかと思われるけれど、本編、ほんとに素晴らしいのでファンタジーに抵抗がない人は読むと楽しめるだろう。
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外伝とはいえ、読むと「ああ、この世界に帰ってきたんだなあ」と実感する。優れたファンタジー(に限らないかもしれないが、特にファンタジーにおいて。ファンタジーが好きなのかについて考えたの記事を参照)は読むだけでその世界が、自分のいるこの場所と同じぐらい身近に感じられるものだ。グイン・サーガとかね。

しかし僕は、獣の奏者の本編が大好きだった。ミロのヴィーナスに腕を付け加えてしまったら台無しになるように絵画でも建築でもなんでもいいのだが、優れた作品というのは常に「ここに何も足さないでくれ」と思うものだ。だからこそ、欠けるところのない完璧だった本編にたいして、外伝を読む怖さみたいなものが最初はあった。「なにか、蛇足のような余計なものがくっついてくるのでは……」と。

しかし読み始めてみればそんなものはまったく杞憂であった。出だしの三行を読んだだけでも、懐かしい世界に戻ってきた心地よさばかりを感じる。『風が吹いてきた。 なだからな坂を上る私の背を押し、うなじをすりぬけて髪を揺らしていく。草がざわめき、白い綿毛が舞い上がった。』エリンやイアルやジェシ、エサルにまた出会えた、というキャラクタ達への愛情ばかりではなく、匂いや色、風景といったイメージだけでなく自身の身体的な部分へと、五感を通して芳醇に迫ってくる。

本編について書いた3つの記事では、主にロジック的な、言葉で表現しやすい部分での説明を主体にした。しかし実際のところ、獣の奏者という物語の魅力はもっと言葉にしづらい部分にあるのだとこの外伝を読んでいて改めて思うようになった。それは本作が主に出産や恋愛といった、言語化不可能な、身体的な領域を主にあつかっていたからかもしれない。

言語化不可能な主題を扱っているだけでなく、一貫して五感を通した豊かなイメージを伝える文章だからということもある。それはただの「絵」的なイメージとして存在するだけでない。匂いや色や音、肌を通り抜けていく感覚のような、生活の中で普通は無意識のうちで受けているものがしっかりと文章で描写されていることからきているのだと思う。

以下ではそのあたりを中心にして本作のレビューにしたいと思う(もうそれレビューでもなんでもねえな)

「刹那」という中編では「色」のイメージが何度も反復される。『「この上衣、きれいだと思いますか?」』とエリンはイアルに向かって問いかける。目がさめるような明るい黄色の上衣だ。普段獣の世話をするおかげで、あまり目立たない衣ばかり着ているエリンにとって、そうした明るい色の服を選択するにはなかなか踏み切れない心境だったのだろう(同時に今まで王獣一辺倒だった彼女が、そうした明るい色に惹かれ始めた=色恋に目覚めはじめた、ということでもあるか)。結局、エリンはイアルの率直な感想によっ、明るい黄色の上衣を買うことになる。

「刹那」はエリンとイアルの恋愛と、出産に向けての心境が丹念に描かれていく中編だ。まだ知り合ってまもない、恋愛関係にも発展していない時期の二人は色彩をを気にするような余裕のない状態だった。エリンはその能力により政治的に難しい立場に立たされており、自由な振る舞いなど許されない状況。対するイアルも長年、いつ死ぬともわからぬ身として過ごす堅き楯として過ごしてきた。

二人ともスタート地点では、色でいうならば「黒」あるいは「無色」が一番近い状況だと思う。しかしその後、色に関する描写がいくつも続く。『細く黄色い雲が、暮れていく空にたなびいていた。』『赤や黄色の派手な提灯を連ね、あけはなった窓から白い腕がひらひらとゆれるその一角は、俗に<奈落>と呼ばれる。』『汚れの目立たぬ焦げ茶色の衣を着て、くすんだ顔をして、戸口に現れた。』そしてこの場面だ。⇒

「ここで、ご飯を食べていると……」
それだけ言って、また長いこと黙りこんだ。次に口を開いたときは、すこし落ち着いた声になっていた。
「見ているものに、ちゃんと色があって……。
ラザルにいると、ふだんの暮らしなのに、なぜか、色がなくて──すべてが、薄い膜を隔ててあるような感じで……」

一度空っぽになった二人が、惹かれ合い、生活の中に色がついていく。二人で一緒に時間を過ごすたびに、色鮮やかな世界へと戻っていく。それは描写のレベルでそう演出されているのだと言い切るわけではないけれど、少なくともエリンについてははじめにイアルに相談して買った「明るい黄色の上衣」に象徴されているし、イアルもまた途中でその装いを変える。それに対するエリンの応答がもう泣ける。

「そのうち慣れるわ」
それから、ふっと微笑んだ。
「その衣、似合っているもの。……あのころより、いまのほうが、ずっといいもの」

いままで二人の中になかった、「あたりまえの生活」に、段々となじんでいく過程が、ほんのわずかな描写から膨らんでいく。「あたりまえの生活」という二人にとっては望んでもなかなか得ることのできなかった、そしてこれから先も戻ってくることのない刹那を過ごしている、この瞬間の描写がたまらなく切ない。

これはエリンとイアルが龕灯祭りと呼ばれる祭りに二人で参加しているときの会話なのだが、闇の底を流れる川のように龕灯の行列がわたっていき、歌と笛の音が聞こえる、といったイメージが美しい、この短篇集の中でも屈指の名場面であると思う。

匂い

匂いの描写もまた印象的だ。匂い=人物だといってもいいぐらい本作において匂いの意味するところは重要である。いくつも面白い描写があるのだけど、ここでは特に特徴的なものを……。匂いの描写にこれだけこだわっているのは、僕もたくさん小説を読んできたけれども上橋さんの特徴であると思う。

幼馴染みのヤントクしかあげたことのない、がらんとした板の間に、戸惑いながらエリンをあげて……いったいなにを話したのだったか、話自体は断片的にしか覚えてないのに、帰ったあとも、板の間にエリンの香りが残っていたことだけは、鮮明に覚えている。
ずいぶんあとになって、その香りがユトスという洗髪剤のものだと知った。
王獣は匂いに敏感で、娘たちがよく使う洗髪料の匂いを嫌うが、果実の皮から作られたユトスの、かすかに甘ずっぱい香りなら気にしない。だから、カザルムでもラザルでも、王獣の世話をする者はその洗髪剤を使うのだという。

その後重要なシーンでも、この香りが重要な意味をもってくる。イアルが、話自体よりも香りの方を鮮明に覚えているように、エリンといえば、まずはかすかに甘ずっぱいユトスの香りなのだ。ちょっと話がそれるかもしれないけど、僕もこういうことあるなあ。話している内容は全然覚えてないのに匂いや風景やっていう細かいことばっかり覚えていること。

でもそれって当たり前かもしれない。文字情報なんていくら積み重ねてもバイト数で数えればほんのわずかだ。僕がこれを4000文字程度(読むのに5分ぐらい?)書いたとしたって、たったの2000バイト程度。音楽なら5分程度で数メガバイトだ。文字情報なんかより目で見、鼻で聞き、といった情報の方が、情報量としては格段に多い。話した内容よりもその時の状況ばかり覚えているのは仕方がないことなのかもしれない。余談終わり。

もう一つ上橋さんの文章を語る上で外せないのが「光」の描写なんだけど、それまで書いていくとどんどん細かくマイナなところに踏み込んでいくからとりあえずやめておこう。このような、食事や、人との関わり合いの中で香りの描写があることや、豊富な色と光の表現によって、なんというかその世界のイメージがより多層的になってくる。

刹那というタイトル

せつな【刹那】1 仏語。時間の最小単位。1回指を弾く間に60あるいは65の刹那があるとされる。2 きわめて短い時間。瞬間。「―の快楽に酔う」「衝突した―に気を失う」「―的な生き方」 文庫書き下ろしも含めて4編の中短編がおさめられているが、そのどれもが人生の中でもほんのわずかしか存在しない、出産や子育て、一時の恋のような、特別な一瞬を切り取っている点で共通している。

その後のエリンや、イアル、エルサのことを思えば、その一瞬がどれだけ彼女、彼らにとって重要な時間だったのかがわかる。短編の中で描かれるのは生命が生まれ、恋に落ち、世界に色がついていき、子供がどんどん変化していく、ほんの一瞬の時間ではある。でも人間の人生においては、そうした一瞬が時間の量と比例せずに、どんなに長い時間にも負けないぐらい強い意味を持つことがある。

村上春樹さんは『使いみちのない風景』という作品の中で、こんなことを書いていた。『写真はそこにあったそのままのものを写し取っているはずなのに、そこからは何か大事なものが決定的に失われている。でも、それもまた悪くない。僕は思うのだけれど、人生においてもっとも素晴らしいものは、過ぎ去って、もう二度と戻ってくることのないものなのだから』エリンたちが通過する刹那の体験は、どれも時間にしたらごく僅かなものだけれども、それらはどれも過ぎ去ってしまえば、取り返しのつかない大切な時間なのだ。

だからこそ、愛おしさも募る。その一瞬の輝きは先程も書いたように子供の成長過程のひとときであったり、ほんの一瞬しか存在しない男女の関係の中に表現されたりする。でも描写的な意味でいえば僕が惹かれたのは、そうした描写とセットのように現れる光の描写である。たとえば文庫書き下ろしの『綿毛』のこんな描写だったり。

 アッソンに抱きしめられたとき、頬をつけて、あの温もりに包まれたとき、ふわっと、なにかがほどけたような気がした。陽の光が、眩しいくらいに透きとおって見えた。
 風に鳴る葉のそよぎが、木漏れ陽の光が、たとえようもなく美しかった。

一瞬のぬくもりと同時にあるのは、その時にしか存在しない「光」が照らしだしている情景である。そう、この『獣の奏者』にかぎらず、上橋さんの作品ではやたらに「光が射す」のだ! 『街路樹が途切れ、ふいに明るい光が全身に降りそそいだ。(p46)』『冬の朝の透明な光が、壺の縁に固まって白濁した蜜を光らせていた。(p108)』『目が合った瞬間、眉間に光があたったような気がした。(p172)』まだまだあるけどこれぐらいで……。

さっきは光については書くのに出し惜しみしたけれど結局書いてしまった。無闇矢鱈と光があたるわけでもなくて、重要な場面で光があたる事が多い。演出のひとつとして使っているのだろう。でもこうした描写の積み重ねがあってこそ、この世界への親しみがどんどん増していくのだと思うのだ。。料理の描写についてや匂いの描写についてももっと書きたいけれど、僕が意識せずに読み流してしまっている要素もきっと、たくさんあるだろう。

獣の奏者 外伝 刹那は、人生において最も素晴らしい、過ぎ去ってもう二度ともどってくるこのとない特別な一瞬を、豊かな情景と感覚の描写によって文字の上に表現させてみせる、素晴らしい物語だった。上橋さん、ありがとうごおざいました。