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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

標高8000メートルを生き抜く 登山の哲学 (NHK出版新書 407) by 竹内洋岳

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山に登る人の話が好きだ。小説でもノンフィクションでも映画でも変わらない。

何が面白いのか考えてみたが、僕には登山に生命をかける人たちのことがぜんっぜん理解できないからかもしれない。生命をかけるというのは単なる比喩ではなく、登山家は現代とは思えないほど簡単に死ぬ。あっさりと死ぬ。しかも体験者の話を読んでいると、ぜんぜん楽しそうじゃない。酸素が薄い、荷物は重い、めちゃくちゃ寒い、8000メートル級の山に至っては酸素の量など平地の3分の1に過ぎない。およそ人間が挑むような環境ではない。

それなのに酸素ボンベ無しでのぼったり、より危険なルートで登ったりといった縛りプレイを平気でやってのける。自分の命を賭け賃にして、ハードで見返りの少ないギャンブルをやっているようなものだ。自分の命を賭けたゲームで縛りプレイって今どき物語の中にしかいなそうな存在が現実には登山家という形でいっぱいいるのだから凄い。

つらく苦しい思いをして、金を山ほどかけて、時間をかけて、その挙句に自分の力じゃどうしようもできない雪崩にあってあっけなく死んでしまう。科学力を全面に押し出せばいくらでも頭頂には立てるが(無理なとこもあるが)それもせず自力でいくのを至上とする。究極のドMじゃあありませんか。でも登山を続ける人たちはみなそうした死にかけた体験や苦しい思いをやけに楽しく語るんだよなあ。それどころか山で死ぬのならば本望とまでいってのける。

完全に想像の埓外にある人たちの話なのだ。こうした登山家の本を読む度にエイリアンかなにかに触れる思いがするし、世の中には僕の知らない楽しいことがまだまだたくさんあるのだなという気分にさせてくれる。たとえば本書の冒頭は著者である竹内洋岳さんが雪崩に巻き込まれて東京タワーの高さぐらい転げ落ちてなんとか生還したところから始まっているが、その時の心情からしてなんともぶっ飛んだ、およそ常人では想像つかないようなことをいってのける。

落ちるなら、「落ちるかもしれない」と思って落ちたかった。死ぬのであれば、「死ぬかもしれない」と思って死にたかった。雪崩の危険は考えていました。自分では雪崩をかわしたラインを登っているつもりでした。それなのに、雪崩に巻き込まれてしまった。落ちながら「助からない」と感じたとき、その状況に自分が追いついていないことに、ものすごく腹が立ったわけです。

自分が今まさに死のうとしている時に思うことが「状況に自分が追いついていないことに腹が立った」というのだからすさまじい。しかもその後死ぬ直前で救助されて言い続けたのが「助けなくていい」ということ。自分の足で下りることもできず、他の登山家に迷惑をかけている、そんな状況が「プロの登山家として自分を許し難い」のだと。いやーそれは素直に喜んでおこうよ、と思うが混乱もしていたようでもっとも強固に思い込んでいることが一番最初に出てきたのだろう。

「助けなくていい」と錯乱した状態で言っていることにも共通しているが、本書が個性的なのは「プロの登山家である」という強烈な著者自身のプロ意識だ。お金をもらって山に登っているわけであるけれど、そうした単なる契約関係を超えた「登山家」にたいする自負と覚悟が著者のいう「プロの登山家」にはこもっていて、それは「想像」という本書を貫くキーワードになっている。

何かと危険と言われる八〇〇〇メートル峰ですが、登頂のために必要なのは、人並み外れた技術ではありません。そもそもこの本を一読していただければ、私が特別な人間ではないということがよくわかるはずです。では、何が十四座完登のために必要なのか? それは、人より多く”想像”できるかどうかだと思うのです。

最初落ちていくときに怒ったのも、「そうなる状況を想像できていなかった」ことに対する怒りだった。こんなときは死ぬかもしれないと想像できればそのケースにはあらかじめ対応策を検討できるわけでそうした想像ができなければ回避する手段を考えることも出来ない。登山に必要なのはあらゆるリスク、あらゆる状況を”想像”して、対策をとるというその反復プロセスにあるのだ。

だからこそその能力を使い切れなかったことに対して「怒った」。商売道具が完全に機能していなかったことを痛感させられてしまったわけで、その感覚は自分に置き換えてもよくわかる。僕も何冊も登山の本を読んできたけれど、これだけ「プロの登山家であること」を自分に課している人は初めて読んだなあ。みなほとんどは自分の満足、納得の為に登っていて、それは著者自身も同じように見えるが、そこには「プロの登山家である」という別軸が存在しているのだ。

面白かったのが冒頭の事故のあと入院していたらお見舞いに来る人達の言う「運が良かった」という言葉がきつかったというエピソード。『自分は運が良くて助かったのか? 仮にそうならば、二人の仲間は運が悪くて命を落としたことになる。そんな理屈は絶対に受け入れられない』 偶然の中に必然を見出し、自分の力へと変えていく。ここがねえ、人間的で、すごく良かったのだ。

なんだかんだいって人生というやつは運に左右されている。運というか、たまたまとか偶然としかいいようがない悲劇がどこにでもある。僕はたまたま日本に産まれた。東京で育った。仕事についた。でも一方ではエジプトにうまれてタイミング悪くクーデターに遭遇して死ぬ人もいるわけで、そんなもんどうしようもない。不幸な目にあった人が「なぜ私でなければいけなかったのか」と嘆き苦しんだところでそこに明確な理由が与えられることなんてほとんどないのだから。

「運が良かったですね」と生き残った人に声をかけるのは、一方で死んだ人に対して「運が悪かったですね」と声をかけるのと同じようなことだ。世の中運で割り切れることもあれば、割り切れないこともある。割り切れないものをなんとしても割り切るのだとするときに、人間しか出さないようなエネルギーが発揮されているように思うのだ。たまたま起こった意味のなかに自分なりの解釈を勝手に見出していく。その傲慢な自分勝手さがしかし、文化や文明といった大きな言葉でなくたって、何かを前に進めてきたのだと思いたい。

やはり僕は山になんて富士山ぐらいにしか登ったことがないし、経験的には山の魅力はやっぱりよくわからないままだ。知識的には登山家の人たちが何を求めて山に登っていくのか、わかってきたような気がする。たやすく言葉にできるようなことではないけれども。多くの人が命を賭けるに値するものがきっとある。何度死にかけても山に登り続ける人たちがそれを物語っている。

標高8000メートルを生き抜く 登山の哲学 (NHK出版新書 407)

標高8000メートルを生き抜く 登山の哲学 (NHK出版新書 407)