基本読書

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新訂 福翁自伝 (岩波文庫) by 福沢諭吉

これはもうべらぼうに面白い一冊で古びれるどころか当時(福沢諭吉時代)の雰囲気が外部にいる知識人といった主流派から離れた立場からみられて(維新だなんだの言っている奴は馬鹿だし、幕府も引きこもりばかりで馬鹿ばっかりだ!!)たいへんおもしろいのだ。坂本龍馬、ひいてはその維新は今でこそ成功したかのように見えるので讃えられることが多いが当時からしてみればゴロツキは増えるわ理不尽な暗殺は増えるわでアホまるだしのように見えもしただろう。福沢諭吉などは英語を早くから英語を使いこな海外との折衝に最初期から関わっている人間であったから身もずいぶん狙われたようだ。

福沢諭吉といえばなんといっても慶應義塾だしお札にもなっているしなんだかとっても偉い人だという認識が強い。ところがその実大酒飲みで若いころからろくでもないことを山ほどやっている。本書は速記者に向かって話したことを福沢諭吉が直すといった形で作られているが、もう言いたい放題、馬鹿にしたい放題。それで自慢をした他者を見下した嫌なやつに見えるかというとそうでもなく理屈が通った文句のつけ方なのだから素晴らしい罵倒芸だといえよう。教育システムから何まで福沢諭吉が<発明>したことは実に多いのだがそれらにも極々、まるで近所に散歩にいったんだけどさ〜ぐらいのさりげなさで触れられていていい。

福沢個人の体験談としては、勉学に対する姿勢、知的探究心が読んでいて面白い。どうにも知的探究心というやつは、飢餓感と表すのがいいように思う。情報的に飢え、知りたいことがまったく知ることが出来ないという時に念願の情報が目の前にやってきたときにむさぼりつくようにして食らいつく。そうした情報的飢餓感のエピソードが本書には何度も出てくる。時はまだ江戸時代であり外国人もたまにはくるしこちらからもたまに使者がいくものの洋書のたぐいはめったに入ってこない。福沢諭吉も英語をやり洋書を読めるようになるが、珍しい洋書などなかなか手に入らない。

たまにどれだけ働いても買えないような高価な洋書が近所で手に入ったと聞けば、ほんの少しでいいから貸してくれないかといって借りてきて不眠不休で本を書き写す。当時福沢が所属していた塾では、珍しい原書がたまたま数日間だけ借りられたりすると、読むのではなく「一人が読み上げ、一人がそれを疲れ果てるまで書き続け、疲れきったらそれぞれ交代する」というやり方で昼夜を問わずに書き写し続け「いやあ読ませてもらいました。ヨカッタですよ」とかなんとかいって原書を持ち主に返すのだった。

当時の福沢諭吉の学問キチガイエピソードはすごいもので、体調を崩して枕を探したら家に枕がない、捨てたのかといえばなんのことはない、たんに毎度崩れ落ちるようにして本を読むまま机に倒れこんで寝ており、布団でなど寝たことがなかった、などと平気でいってのけるのである。しかも当時はそうした人間がいくらでもいたのだという(もちろん謙遜の可能性は否定できないが、あまり意味のない謙遜だからたぶんほんとだろう)。

当時はそうした自国以外の情報があまり手に入らない状況であるから、洋書を手に入れその科学をしるということはまた情報の価値が違っただろう。日本という国で自分以外知らないかもしれない情報が山ほどあるのだから。自分がなんとかかんとか読み込んだ物は今とは比べようがないほどの情報価値を持っていたし、そもそもそうした情報がなかなか手に入らなかった。いまは不眠不休で書き写さなくたって洋書なんかいくらでも手に入る。むしろ情報は溢れかえっており、情報に対する飢餓感などというものはほとんど感じないものだ。

まわりに食べるものがいくらでもあれば、無理にがっついて食べる必要がないのと同じように、知的探究心というやつもまわりに環境が整っていればそうそう欲求エネルギーに変わらないのであろう。まあそのわりに今日ふと駅のホームを見回していたら8割ぐらいの人間がうつむみてスマートフォンの画面を覗きこんでいて、これは情報に対する欲求じゃないのかという反論もすぐに浮かんでくる。ただなあ……これに関しては飢餓感から携帯(スマートフォン)をみているというよりかは、中毒患者のそれのように思える(それもまた飢餓感といえばそうだ)。

しかし1800年台前半から後半にかけてといえば知識レベルも今とそう大差ないレベルにまでいっているところも多くあるわけで、実際福沢諭吉らがほとんど初めてといってもいいぐらいにアメリカにわたって「馬が車をひいてるぞ!! なんだこれ!!」と驚いたり「うわあ絨毯がある!! まじで!!」と驚いたり超田舎者だが彼らもアメリカにヨーロッパ諸国をまわることと、夜も昼もなく知識を入れ続けるといった特殊な環境下にあった人々だったこともあるだろうが認識が世界最先端まですぐにおいついていく。

優雅にタバコを吸って科学談義をして月や火星にいるかもしれない生命の話をしながら日々を過ごす国民がいる一方で、自分たちの国に帰ればやれ刀をさしてないなんてしんじられないだとか攘夷だなんだ、責任をとって切腹しろだのといっているやつらがいるのだから当時の福沢諭吉のうんざり感がよく伝わってくる。現代人が突然江戸時代にタイムスリップしたらこんなことを思うだろうなあ、ということを当時既に福沢は味わっているのだ。だって刀をさして歩いてるんだよ、馬鹿丸出しだよね。

福沢諭吉という男は本当にすごかった、そして当時の状況と福沢諭吉らの先進性のズレはそのまま現代人と江戸時代のズレでもあるように感じられる。200年も前に生まれた男の人生記のようなものが今読んでもおもしろいのはそうした理由があるからだろう。混沌と革命の時代を生きた一人のアウトサイダー(これ、お札になっているような人間がアウトサイダー? と思うかもしれないが、読めばわかる)の冒険記。これはオススメだ。

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)