基本読書

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ゴーストマン 時限紙幣 by ロジャー・ホッブズ

小説の文章というのは不思議なものだ。何十年書き続けた作家の文章が円熟の極みに達する──ということはあまりない。下手なヤツはそこそこうまくなる可能性がある。一方で上手い文章を書く奴はその一番最初の作品からして、どうしようもなく引き込まれる文章を書いてみせるものだ。でもそんな作家は滅多にいない。本作『ゴーストマン 時限紙幣』の著者ロジャー・ホッブズは1988年生まれの若手作家で、これがデビュー作になる。しかしセリフ回し、語り口をみても、演出にディティール、どこをとってもベテラン作家が満を持して放つ、技術が凝らされた円熟の一冊といった印象しかない。

もうプロローグからしていきなりギアをかっ飛ばして最高速度に達したような切り込みで突っ込んでくる。最高だ、最高のプロローグだ。はじめて読む作家、ましてやそれが第一作の新人の本なんて、期待ゼロで鼻くそでもほじりながら「ははーん読んでやるよ」ぐらいの勢いで読み始めるものだが、本作の場合は最初の1ページを読んだだけで正座をしなんなんだこれはなんだこれはと目を見開きながら読むハメになった。さっき書いたように「上手い文章を書く奴はその一番最初の作品からして、どうしようもなく引き込まれる文章を書く」まさにその逸材が目の前に出現したのだ。

必要な情報が必要なだけ配分され、リズムよく描写を、起こったことを省略少なめにありのまま、むしろ「そんなところまで描写するのか?」と驚くような細かいところまで重ねていくスタイル。そして何もかも想像通りのことが書かれているのではなく、「意外! でも納得!」という意外感と、納得感に満ちている。意外性とその納得感というのはエンターテイメントの核になるものだが本作のプロローグにはそれがすべて詰まっている。

カジノを襲う方法は三つある。ひとつは正面突破だ。八〇年代まではそれでうまくいった。今はあまり流行らなくなったが、銀行強盗とまったく同じで、マスクをつけ、銃を持って何人かで中にはいる。そして、両替所の鉄格子の向こうにいる可愛い娘に銃を突きつける。娘は泣きだし、命乞いをする。次いで支配人を脅し、現金を入れた引き出しから札束を出させる。悪党どもはそれを受け取り、そのまま歩いて正面玄関を出たら、あとは車で逃走する。どうしてそんなことがうまくいくのか。常識のある人間ならだれでも、両替所からいくら盗まれようと、銃撃戦のほうがコスト高なことを知っているからだ。しかし、時代は変わる。

淡々とカジノを襲う方法について、一つ一つ手順を解説していく。愚直に手順を一つ一つ書いていくのだが、それは決して外しておらず、むしろそのゆっくりとした丁寧な描写が、目の前に現場をありありと想像させ、プロの手際を予感させる。当然ながら正面突破なんてものは現代ではうまくいかない。その理由までキッチリと説明され、二番目にチップを狙う手口、そして三番目の移動中のカジノの金を強奪する手口の解説へとうつっていく。だんだん本命度の高いものへ説明が移行していくわけで、これから起こる事態へ興奮が増してゆく。

ホッブズが書く描写は、読書が想像しているものを超えているという意味で完璧以上なのだ。無駄をはぶき、淡々と描写を積み重ねて、しかもそれがいちいちキマっているクールな文章。どこを切り取っても予想を上回る意外性と、そしてそれを上回る「確かにそうかもしれない」という納得感を伴っており、何よりその描写の一つ一つが最高にカッコイイ。たとえば本書の語り手である「私」は通称ゴーストマン、匿名の存在であり、犯罪者や問題が起こった時に関係者を綺麗に消してみせる。誰もその後を追うことはできない。いくつもの顔を使い分け、どんな人間にも変身してみせる。その男が語りを始める部分の描写もかなりスゴイ。

 私という人間の存在を知っている者はこの地球上にたぶん三十人ぐらいだろう。私がまだ生きていることをその全員が知っているかどうかはわからないが。仕事柄、私はどこまでも匿名の人間でいなければならない。だから、電話番号もなければ、手紙も来ない。銀行口座も借金もない。買えるものは必ず現金で買い、現金で買えないときにはいくつかの法人カード──ヴィザのブラックカード──を使う。そのいくつかの法人はどれも登録先が外国という会社だ。私に連絡を取る方法はeメールしかない。といって、そのメールに必ず返信するとはかぎらないが。アドレスは市から市へ移るたびに変える。知らない相手からメールが来はじめたり、メール自体が重要な情報に耐えられなくなると、ハードディスクを電子レンジに入れ、荷物をバッグひとつに詰めて最初からやり直す。

簡単なあらすじ

あらすじはわりあい簡単なので、ちょっとだけ説明して終わりにしよう。連邦準備銀行の新札を盗んだ二人の犯罪者がいる。通常通りなら完璧に構築された計画により、現場を立ち去って予定された隠れ場へ潜み、フィクサーへ連絡をし、それで終わりのはずだった。しかし謎の第三者により強盗の一人は射殺され、一人は腹に銃弾を食らったまま雲隠れをしてしまった。紙幣にはセキュリティの為爆薬が仕込まれており、48時間後に爆発してしまう。匿名の「私」の元に、この金の回収依頼がくる。本来であれば請けない仕事だが、五年前の凄腕の犯罪プロ集団によって結成された銀行強盗計画の時の「借り」をたてに、仕事に駆り出されてしまう──。時限紙幣って、そのまんまの意味かよ! というわけで、48時間以内にいわくつきの金がどこへいったのか探す、まあいってしまえばそれだけの話だ。

プロフェッショナル同士の物語

やはりサスペンスといえば、プロフェッショナル同士のドラマだろう。たとえば映画『ヒート』はロバート・デニーロが率いるプロ犯罪者集団が実行する強盗事件と、この事件を担当する刑事のアル・パチーノの衝突のドラマだ。デニーロは引退をするため最後の仕事として銀行強盗を計画するが──という話でこれは「プロフェッショナリズム」が重要な鍵になる。デ・ニーロが演じる犯罪者も、パチーノが演じる刑事も、どちらもプロフェッショナルとして描かれている。常にお互い最善手を打ち合い、わかりやすい欠点もない。

こうしたプロフェッショナル同士がぶつかり合うからこそこの先いったいどうなってしまうのか? 次の一手には何がやってくるのか? というサスペンスが生まれてくる。しかもこうした犯罪者vs刑事物でプロフェッショナルを書くと面白いのは、どちらも通常一般人の経験する「日常」とはまったく別種の価値観や方法によって実行されていくことだろう。しかもそいつらは「プロフェッショナル」なのだから、想像もつかないような熟考と、長年の経験を彷彿とさせる描写が必要とされる。コレは言い換えれば、作家や演出家には、「まさかそんなことが現実に可能なのか」という驚きと、「しかしこれは本当に有り得そうだ」という納得感を与えるディティールを提供することが求められる。

本書の場合は、FBIも出てくるが基本的には犯罪者vs犯罪者であり、その予想もつかなさはヒートを超えている。何しろどちらも法律を守る気がさらさらないのだから、取れる手段は広く、物語はどんどん予想もつかない方向へ転がり続けていく。次から次へと明かされる非合法な偽装手段、銀行強盗時の手順、居場所を悟られない電話の方法、逃走時に必要とされるもの、FBIと警察への対処法、尾行にあった時にいかにして相手を撒くのか。息を吐くようにして語られていくそうした犯罪者特有の特殊な知識が、いちいち納得感を伴っていて、そのプロフェッショナルぶりにテンションがヒートしていく。

それでも、彼女からなにより学んだのは、完璧でなくてもいいということだった。説得力を持つこと。それがキモだ。

これは本来の自分以外の、どんな人間にだってなるために「私」が師匠の女性から受けた教えを思い返している場面だが、これは変装だけではなくそのままフィクションのリアリティについての話にも通じる部分だろう。完璧でなくてもいい、でもそこには説得力がなければならない。

余談だが本作にはこの師匠の女性を含め幾人かの女性が出てくるが、みな例外なくプロフェッショナルで燃える。たとえばこの師匠が弟子である「私」に、ゴーストマンとしての心得をといていく部分は、メタルギアソリッドでスネークに戦闘技術を教えるザ・ボスとの師弟関係を彷彿とさせ、ストイックな技術の継承を目的にした関係性がカッコイイ。唯一出てくるFBI側の人間も女性なのだが、最初に接触した時の最後の捨て台詞「わたしはこれでなかなか優秀な捜査官なんですよ」との言葉通り、押すべきところは押し、引くべきところは引き、交渉カードに使えそうな部分は押さえ自組織に有利なようにかけひきを仕掛けてくる。

アクションが主体の作品ではないからこそともいえるが、男臭いだけでない女性との対等な関係性燃えな人間にはぐっとくるものがある。でもここ数年こういう作品、特に翻訳作品ではポピュラーになってきたような気がするな。

描写、セリフのかっこよさ

ディティールの書き込みが本書のウリの一つであることは間違いないが、ディティールの表現の仕方それ自体がカッコイイことが本書を相乗的に面白いものにしていると思う。たとえばこんなところとか。

尾行をまくというのはゆっくりとしていて即興的な行為だ。敏速なものでもなければ、振り付けみたいに事前に動きを決めておけるものでもない。追われるまえにそのときの準備を入念にしておく必要がある。市の通りという通りを知り尽くし、その通りを百回は実際に走っているくらいでなくてはならない。それがすんだら、道路脇に折りたたみ椅子を出して坐り、ストップウォッチで車と車のインターヴァルを計る。それでもなお実際に追われたら、さらに逃走経路を自在に変えられるようでなくてはならない。

この『尾行をまくというのはゆっくりとしていて即興的な行為だ。』というような、ある物事を語り出す時のドライブ感が毎度毎度すごいのに加え、セリフ中にところどころとんでもなく自然でカッコイイ文句がはさまれるのがいい。

「修理工が要るんじゃない。ホイールマンだ。壊れたトランスミッションを治せるだけじゃ駄目なんだ。タイヤ跡を一目見ただけで、その車の車種がわかるようなやつだ。でもって、ひかえめで、よけいな質問はしなくて、支払いはキャッシュを喜ぶやつだ。どうやれば息ができるのか私が知ってるくらい、車のことをよく知っているやつはいないかな?」

こんなかんじで全編話が進んでいくんだから、全体的にいかにこの小説がクールなものに仕上がっているのかは推して知るべし。カット割りまでありありと思い浮かぶような文章(コレはこの作家の特徴の一つだと思うが、情景の省略をあまり使わずに、起こっていること、起こった動作を一つ一つ全部書いていくスタイルに由来するのだと思う)と、何人ものシナリオライターが熟考に熟考を重ね、付け足したり削り落としたりした末に残ったような珠玉のセリフのみで構成されているような本作は、読み終えた時には一本の良質な映画を見終えた後のような気持ちよさが残るだろう。サスペンス映画好きにもおすすめしたい一冊だ。

ゴーストマン 時限紙幣

ゴーストマン 時限紙幣