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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

プリティ・モンスターズ by ケリー・リンク

ファンタジー

小説を読んでいると完全にキャラクタの心情が掴める、あるいはぐっと身近な物に感じられ家族か何かのように親しみを持つ一文や、その世界そのものへの愛着へとつながるような、「何かが完全に適切なやり方で表現されていることへの感動」を覚える一文というものがある。

たとえばそうした一文は、いきなり出てきたキャラクターに関する心情描写であってもまるで何十ページも描写されたかのように一瞬で「ああ、この人はこういう人物なんだ」と自然に把握し、心情をシンクロさせることができる。明らかに一文を超えた、ZIPファイルのように情報を圧縮している文章のことであり、「こんな表現がありえるのか」と想像の埒外から殴りつけられるような、「小説とはこういうものだ」と思わせてくれる作家の文章に出会えるのは、小説を読み続ける楽しみの、一つの理由である。

一瞬で引きずり込まれ、惚れ込むのだ。そうした一文を書ける作家は多くはない。いや、まあ、「そうした一文」なんていっても、僕の極端に主観的な好みを大雑把に形容したものであり僕以外の人間がそれをどう考えているのかはわからないが、主観の限りにおいてはめったにいないし、いたとしても何度もあるものではない。ケリー・リンクはしかし、そうした一文を一つの短編の中でいくつも存在させることができる稀有な作家である。

たとえば最初の短編『墓違い』では、ひょんなことから墓が掘り返されて蘇ってきた娘(ひどい話だな)が母親と出会う場面で、ちょっとだけ会話を交わした後「もう行かなくちゃ」という娘に対して母親が次のように振る舞う場面がある。このあたりとか本当にぐっとくる、ここまでほとんど描写されることのない人物なのに、この一瞬で一気にその強さと弱さが表現されてしまう。

「もう行かなくちゃ」とベサニーは言った。何か遠くの音を聞きとろうとしているみたいに、首が少し窓の方に向いていた。
「あ、そうなの」と母親はべつに平気なんだという風を装って言った。また戻ってくるの? と訊きたくはなかった。元仏教徒といっても、やっぱり完全に仏教を捨てたわけではない。いまでもまだ彼女は、すべての欲求、希望、自我を捨てようと努めている。ミセス・ボールドウィンのような人物の人生に大惨事が起きて、生活がばらばらに崩れてしまった場合、その人物は往々にして、救命いかだにしがみつくみたいに己の信念にしがみつく。たとえそれが、人は何ものにもしがみつくべきではないという信念だとしても。

肝の一つは葛藤なのだろう。ほんのちょっぴり出てくるだけのキャラクタにも、引き裂かれそうな葛藤がうちにひめられている。このお母さんでいえば、引き止めたくて仕方がないのに平気を装わなければいけない一瞬である。この他の短編も妖精が出てきたり、エイリアンが出てきたり、魔法が出てくる不可思議な世界が舞台だったりと多様すぎるぐらいだが、みなそれぞれの立場で自分のどうしようもない欲求と行動の結果引き起こされる災厄と向き合う必要を迫られていく。

ここで簡単に本書の説明だけしておくと、『プリティ・モンスターズ』はケリー・リンクによる短篇集だ。中には10個の短編が収められている。どれも少し不思議的な、どちらかといえばファンタジーのようなよくわからないことが起こるものが多い。魔法が出てきたり、妖精が出てきたり。時代も年代もよくわからない世界の話があったりする。無理矢理ひっつかまれて空高く連れて行かれて、そのまま落っことされるような短編ばかりだが、それでもなんだこれはすげえと沸き起こってくるものへの説明がつかずに、じーんと感動してしまうような短編集だ。

そう、わかりやすい面白さではないと思う。かといって難解なのかといえばそうでもない。少年や少女の感覚に同調し、物語にただ乗っていけば、ただそれだけで物凄く高いところまで連れて行ってもらえる。「そのまま落っことされるような短編ばかり」と書いたのは、読了した時の感覚が浮遊感に近いものだからだ。読み終えた時に明確に何かが快感の源だと特定することはできない。主人公がいて、悪の親玉を倒してすっきりする。そういう話ではない。だからこそ短編を読み終えた時、自分の中に沸き上がってくるこの感覚が「いったい何のために」起こっているのかよくわからないないのだが、とにかくこみ上げて、じーんと広がっていくのである。そして、小説を読むというのはそれだけでいい。

おかしな人間が幾人もでてくる。どうしようもない欲求として、なぜか本屋から本を万引きし、自分の息子を小説に書き、しかもそれを不治の病に設定してしまう小説家の父親と、万引きは許容しても息子を小説に出して殺すのは許せない母親が出てきたりする。息子は万引きする父親を苦々しく思いながらも、一方ではちゃんと受け入れてもいる。おかしな世界もそうだ。おかしな、というのも我々の世界と比較しておかしなだけで、極々自然に「そういうものでございます」とばかりに描写されるので「そういうものなのか」と自然と受け入れてしまうようなおかしさではある。

不可思議な話、不可思議な性質であるが、でもどこかしらありえるような気がする。いてもおかしくはないと思わせられる、ぎりぎりのラインにいるような人達と世界だ。肝の二つ目は、そうした人間達が、不可思議な世界において、如何にして困難と葛藤に対峙するのかだ。たとえば『妖精のハンドバッグ』という短編は、語り手の女の子がボーイフレンドの男の子と一緒に、自分のおばあさんが持っている「妖精が住んでいるというハンドバッグ」を開けにいって、ボーイフレンドの男の子だけがハンドバッグを開けていなくなってしまうという、なんだかそれだけ聞くとどうしようもない話だ。女の子は当然助けに行きたい、しかしおばあさんはそれを許さない、ここでもお互いがお互いを出し抜こうと思考が回転し続け、女の子は覚悟を決める。

 男がどこか遠くへ行って冒険をして、そのあいだ女の子は家にいて待ってなきゃいけないたぐいの映画や本って嫌い。あたしはフェミニストなのだ。『バスト』も定期購読してるし、「バフィー」の再放送も観る。だからそういうクソ話なんか信じない。

この力強い宣言がかっこいい。ケリー・リンクは女性だが、力強い女性を描くのが本当にうまい。そしてそれは僕の好みでもある。守られているだけの女性か、あるいは能力的な意味では強くても精神的な意味で男に依存してしまっている(何らかの形で男の下位に位置づけられてしまう)女性の描写とは全く違って、ケリー・リンクやコニー・ウィリスの描く人達はみな女性が女性として独立したかっこよさというか、生々しさがある。実際、こっちのほうが自然だ。

10の短編があると書いたが、その中でも好きなのは書名にもなっている『プリティ・モンスターズ』、『パーフィルの魔法使い』、『サーファー』、『墓違い』、『妖精のハンドバッグ』あたりだろうか。それぞれの短編は、どれも物凄く異なっているにもかかわらず、最初に書いたような、僕が小説を読む理由である「楽しさ」みたいなものを、もっともよく体現していたと思う。

それは結局「存在していて欲しい世界らしさ」みたいなものかな。理想の世界でもなく、都合がいいだけの世界でもなく、本当にあったら嬉しいと思わせられるような存在感と、常に希望を伴った少年少女達の世界がここにはあるのだ。いきなりこれから、というと単行本だしお値段も高いので既に文庫で発売されている過去2作の短篇集から読んでみてもいいかもしれない。

プリティ・モンスターズ

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マジック・フォー・ビギナーズ (ハヤカワepi文庫)

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スペシャリストの帽子 (ハヤカワ文庫FT)

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