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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

文章のスタイルはいったいいつ確立されるものなのだろう

村上春樹の初期エッセイをなんとなく今読み返している(村上春樹堂シリーズ)。村上春樹という作家はデビューが割合遅かったこともあってか、出てきた時点でほとんど文体が完成している作家だった。エッセイの調子も、小説の文体も、もちろんその後の研鑽を続けていく中で幅が広がったりあるいは技術的に洗練されたりといった部分はあれど、「村上春樹の文章」は、当時のエッセイ集や第一作『風の歌を聴け』からして既に確立していたのだ。

で、これは僕が見る限りだいたいどの作家にもいえるものであるように見える。どういうことかといえば、「魅力的な文章を書く人間は最初から魅力的な文章を書いている」ということである。円城塔氏が大学生だったか高校生だったか当時に書かれた文章を読んだことがあるが、すでにして現在と同じスタイルを確立していた。筒井康隆だってデビュー時にすでにスタイルがあった。そうした実例をいくつかみていく中で「ああ、結局のところ、文章ってのは、そのほとんどが才能なのではないだろうか……」と思うようになっていったのである。

もちろん書き続けていく中で小手先の器用さは増していくと思う。技術的な部分と言ってもいい。僕もおそらくは書き始めた時からみれば今はそこそこすらっとした文章になっているはずだが、いかんせん圧倒的に才能がない。文章は大雑把に分ければ「何について書くか」と「それをどう書くか」に分けられるが、前者は視点の問題であり後者はスタイルの問題である。視点を獲得するのは簡単にはいかない。技術的な部分があるかといえば、もちろんそうした面もあるのだろうが、大半はどんな知識を持っているのか、どんな経験を持っているのかによって変化していくだろう。

スタイルはどうだろうか? 作家ごとに文章のスタイルがある。僕もやはり、村上春樹の文章を読めば「村上春樹みたいにこじゃれた感じでふわっとさりげなく、どうも申し訳ございませんねえと自虐感を含ませて比喩をまき散らしながら書きてぇ」と思うし、筒井康隆の文章を読めば「筒井康隆みたいに突然相手に切り込んでいってブルドーザーみたいに地ならしして圧倒していく速度のある文章が書きてぇ」と思うし、円城塔の文章を読めば「円城塔みたいに要所要所でくるっと転調し切っ先を突きつけてくるような直角の文章が書きてぇ」と思う。今さらっと一人一文ぐらいで流してしまったが他にも世の中には天才的なスタイルを持った作家がいて(たとえば町田康とか)とてもとても一文でそのスゴさをあらわすことはできないし、分析もできそうにないのである。

分析できないんだから「うわあ真似したいよう」と思って、コピーしようとしてもぜんぜん似ない。七味を一回ふりかけたぐらいの微妙なエッセンスを含めることぐらいはできたかな? と思うことはあれど、僕の文章が彼らの特性を吸収してふわっとしたりきれっきれな文章として変化していくことはまるでない。もちろんそんな簡単にコピーできたら世の中文章書きなんて仕事が成立するわけないので当たりまえだが、結局絵かきが最初は模倣から入ったとしても最終的にはみな独自の絵柄に枝分かれしていくように、どれだけ頑張って真似しようとしても、どうしたってその人独自のスタイルみたいなものに寄っていってしまうものなのではないだろうか。

そしてそれが必ずしも魅力的なスタイルに帰結するとは限らないのである。僕のような例は、何らかのスタイルの模倣精神や、それに基づいて大量に書いたからといって、ものすげえ魅力的な文章になるのかといえば、そうではないことの一つの実例だと思って見ていただきたい。8年間で累計2000記事以上書いているから、300万文字とか500万文字とかの途方も無い量の文章を書いているはずなのだが、もうこれがぜーんぜん僕が敬愛するような人達の魅力的な文章にならないのだ。

結局のところ文章とはすなわち視点の置き方であり、情報の抽出と取捨選択の勘所であり、バイオリズム的な部分にそって出力されてくるものであり、つまりは生きてきた経験がそのまま表出されてしまうものなのではないだろうか。だからこそ「マシになった」「多少よくはなった」とは研鑽によっていえるようになるだろうが、「劇的に変化し魅力的になった」という変化を文章・文体で起こすのは難しいことなのではなかろうか。そういう人、見たことありますか? 長年の作家生活の中でクソみたいだった文章がものすげえ魅力的な文章に変化していくような人? 

しかし文章のスタイル的な部分がそれまでの人生によって構築されていくのだとしたら、その人の文章が根本的に構築されるのはいったいどの場面なんだろうか? 村上春樹の書く文章は小学生のときからあんなだったのか? 円城塔の文体も? 少なくとも村上春樹が小学生のときに書いたといわれている文章「青いぶどう(だったかな?)」には、小学生の時点で村上春樹スタイルが確立していた。きっと物凄く嫌な子どもだったに違いない。これはまあ一握りの天才の話で一般化は困難であるが、一つの教訓ではあろう。

僕は僕の文章が天才的に魅力のある文章になることは既に諦めてしまっているが、まあ書き続けていれば、自分なりのスタイルには結局のところ落ち着くところには落ち着くものだろうからそれでいいじゃないかと思うようになってきている。物凄く魅力的なわけではないが、たいしてうまくない文章にはたいしてうまくない文章なりの、下町の味的な、なんかそういうしょぼいまとまりみたいなものが感じられるであろう。そういうものはしょぼいけどしょぼいなりにそれまでの歴史を感じさせる、そこはかとない面白さが生まれるものではないだろうか。

村上朝日堂 (新潮文庫)

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