基本読書

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だれの息子でもない by 神林長平

今は亡き伊藤計劃という作家と、神林長平先生を思わせる作家の対話形式のフィクション『いま集合的無意識を、』の中で神林長平のような作家は次のように語っている。

「もちろんそれは大きな脅威だったと思うけれど、それはむしろ、語るべきことを彼の内面から引き出すきっかけにすぎなかったと思う。彼はそれをきっかけにして、現実というものの真の姿、<リアル>というものに直面したんだ。一般的に作家というのは、そうした、<リアル>に触れた瞬間の体験を、一生にわたって書き続けるものなんだ」

神林長平のような作家だけでなく、神林長平という作家もまた、彼の考える<リアル>について書き続けてきたのだといえる。世界とは一体どのように構築されているのか。物語るとはいったいどういうことなのか。言葉は人間にどのように作用するのか。そして、我々の未来にはこのままいくと何が起こるのか。神林長平先生の世界観、現実観といったものは、時を経ていくに連れて一歩一歩進んでいく「神林時空」のようなもので、作品ごとにそれぞれカラーも違えばテーマも、登場人物も、設定もそれぞれ異なるわけだが、彼ら彼女らが持っている切迫感、緊張感は常に共通の<リアル>から発されている。それなのに新作が出るたびに、前作までとは全く別の方向、あるいはさらにその先へと進んでいく。

毎度毎度奇想天外な問いかけ、世界のルールを掲げ、まるで自分自身答えが分からない中で、なんとかして答えをつかみとろうとするかのように、一歩一歩建造物=物語をめきめきと構築していく。まるで読みながらリアルタイムに建造物が構築されていくようなもので、読者はある意味では読みながらその建造に加担し、それが終わった時の見晴らしに立った時に、その先へと進む為の新たな地平が開けているのを知る。自分自身もまた物語構築に関与しているような謎の感覚は神林長平作品を読んでいる時独特のもので、ちゃんとした着地点があるとも思えないその手探りの道行は読んでいてはらはらするものだが、いつもちゃんと着地するのだから凄い。中でも特にここ数年、総決算かつ渾身の一作だった『膚の下』以後、デビュー35周年を迎えるベテラン作家とは思えないような、未来に向けて書かれる作品としての力強さを感じる。

たとえば前作『ぼくらは都市を愛していた』では、情報震という情報へとダメージを与える大規模な減少が起こった時に、Web上の情報とほぼ一体化している人類はどうなってしまうのかを書いているといえる(もちろんそれは一側面でしかないが)。未来に我々の世界はどうなっていて、どのような危機、あるいは現象に直面するのか? といったことを科学者とはまったく別の視点から考え、そして何十年どころではなく何百年単位で残る「物語」を構築してやろう、それができるのが小説なのだからという神林先生の気概が感じる作品だった。本作『だれの息子でもない』もまた、未来はこのようになる可能性があり、そしてその時我々の「意識」はどうなってしまうのだろうか──という問いかけに答えていくようなフィクションになっている。

あらすじ

ある意味ではこれは、最初に冒頭した『いま集合的無意識を、』ので伊藤計劃『ハーモニー』が提示した概念に対して、「その先」を書き継いだ一冊であるともいえるだろう。まあ、それが神林先生のいつものスタイルだということもあるけれど。意識とは何のために存在しているのか、そして、意識は今後どのように変質していって、変質していった先で我々が求められることは何なのか。本作の前提は「我々はいずれ情報管理に自分たちの似姿、アバターを使うようになる」というところから始まる。この未来では子どもたちは幼い頃からネットアバター形成用の日常記録器=ネットカムコンを耳たぶに装着して過ごし、自分そっくりのアバターをつくりあげ、自分の代理としてメールを書かせたり情報を集めさせたりして便利に使う。

ネット上に自分がもうひとり増えるようなもので、こうした仮想の人格は大変便利だろうし、情報が今よりも莫大に増えたらもう生身じゃ処理できないだろうから、中間経由的な存在が必要になってくるのだろう。現状既に欲しいぐらいだ。しかしこのアバターが、死んだ後も存在し続けると困ったことになってしまう。本人が死んだ後も生きて動き続ける本人そっくりのアバターなんて、幽霊みたいなものだ。語り手はこの死者のアカウント終了処置を主たる業務にしている。いろんな種類のメールのアカウント、銀行のアカウント、SNSアカウントなど、ネット上の痕跡を消すのが仕事だ。一個一個調べて消すのなら大変だが、基本的にはアバターがいるのでこいつに処置をすれば芋づる式になんとかできることになる。もちろんそれも簡単にはいかないから、仕事になるのだが。

物語の起点として、高校生の頃に死んだ父が、語り手のもとに戻ってくる。死んだ人間が生き返る世界じゃないから、それはネットのアバターということになる。父はアバターを作っていたのか? 作っていたにしても、現実の父はもう死んでいるわけだから、これはある意味では幽霊のようなものでもあるといえる。そして、なぜか肉体がある。誰か別の人間の肉体をのっとったのか? 死んだ父は母を捨て野垂れ死にしたようなクソ野郎だったが、アバターとなって戻ってきてからも語り手をいように困らせる。身体があり、単純に消滅させられる存在でないネットファントムたるオヤジを、要求を受けながら消してやらねばならない。厄介だが、身内でもあり、何よりそれが仕事だ。

ある意味古典的な幽霊を成仏させてやるために、望みを叶えてやる、幽霊奇譚のような体裁で始まるが、物語はその後あっと驚くようなところまで展開していくことになる。

意識の境界線はどこに

Webというのは既にして僕らの頭の中を可視化、外部化させたようなもののようにも思える。パソコンやスマートフォンのようなものを使って、何か疑問があればすぐに検索するから、ほとんど自然に一体化しているようなものだ。Web上にブログやTwitterなどを開設している場合は、そこにもう一人の自分、それは人工知能ではないけれど、また別の自分がいたりもする。僕だってこのブログに蓄えた膨大なログが失われたら、それは自分自身ではさらさらないのだが、自分の身体が持って行かれたようなショックだろう。つまり、こうした「自分そっくりのアバターがネット上に存在している未来」は現代と地続きの感覚なのだと思う。

本作が問題にするのは、それがもっと先に進んだ時のこと。代理人格が産まれ、自分のように考える自分そっくりのものがいたら、それは自分の意識がアバターと混在していくような事態を招きかねないだろう。我々は現実をそのまま受け取って脳で知覚しているわけではなく、脳でいったん情報を編集、再編し自分たちなりの「現実」をつくりあげて認識している。それを我々は現実、リアルだと思って生きているわけだが、実際は編集済みの<リアル>でしかないというわけだ。ある意味では我々の認知している現実とは、フィクションなのだともいえる。本物の現実そのものを体験しているわけではないからこそ、世の中にはありもしない幻覚をみたり、幻聴を聞いたりといったことが起こりえる。そして大勢の人間が一度に同じ幻覚を見ていたとすれば、それは<リアル>ではなかったとしても、人間の意識というフィクション上では実在する事態ということになるだろう。

ネットと身体が今よりもさらにわかちがたく結びついていった結果、ネットの出来事が意識野にフィードバックされるようになってしまったら──とかんがえると、それは結構恐ろしいことだ。ようは「現実」とは<リアル>を脳が処理した結果生じるものだが、そこにネットの情報が紛れ込んでくる、アバターの意識までもが混在してきたら、「ぼく」と「ぼくのアバター」の間や、見えている現実そのものに様々な影響が出てきてしまうだろう。幻覚、幻聴と今でいうところのものが、一般的なものになってしまうかもしれない。意識内意識とでもいうような意識のせめぎあい、ある種の譫妄状態での闘争を繰り広げているうちに、問いかけは加速し、新たな概念=フィクションに到達し、そこでまた我々は対処を迫られることになる。我々は知性を意識=フィクションで制御することはできるだろうが、意識=フィクション を意識=フィクションで制御することは出来るのだろうか。無茶苦茶な問いかけである。そして『意識と意識のせめぎあい』、この無謀ともいえる闘いを、二人称、語りのテクニックまで使いながら表現しているとも言えるだろう。いや、正直大変なことをやっていると思います。

神林長平は本作でこれまでよりもさらに意識についての詳細を詰め、無意識野の表出となったネット上に、次に現れる存在とはなにか、といったところまでフィクションを推し進めた。それは現実的な、我々の世界に地続きの脅威──であると同時に、希望でもある。なんだか小難しい話をしてきてしまったが、実際はわりとバカっぽいというか、ノリは軽い方にふってある話だ。神林長平作品でいえば敵は海賊シリーズ程ではないにしても、天国にそっくりな星ぐらいかな。だが、どの作品もそうだが、ノリがどれだけ軽かろうが、扱っている問いかけ自体は我々が日々直面している問題、その根源的なところにあり、そして未来へと繋がっているものだ。

だれの息子でもない

だれの息子でもない