基本読書

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泣き虫弱虫諸葛孔明 by 酒見賢一

第四部を読んでいてもたってもいられなくなったので、この類まれな傑作三国志小説について、簡単なシリーズ総評を書いておく。シリーズは現在まだ続く。第一部、第二部は文庫化済みであり、第三部はまだ。第四部は今日出た。

酒見賢一が獲得した新しい語りの魅力

生まれて初めて三国志を吉川英治版で読んだ時、僕は小学生だった。あの時のことは今でも思い出せる。次々と劉備のもとに集まってくる英雄豪傑、張飛、関羽そして何より孔明が。周瑜がいて、孫権がいて、曹操がいた。誰一人取り上げても面白エピソードの連続であり、果敢に敵と戦う様と、酒盛りする様、そして何より終盤にいたってどんどんかつての英雄豪傑が死んでいくさまをみて、寂しさと物語がつまらなくなっていく郷愁をおぼえたものだ。張飛なんて部下に寝首をかかれてしんでしまうのだが、なにぶん小学生のことだから「あーーーーーここからがいいところだったのになんでこんなところで首をかかれてるんだよ張飛ーーーーーー!!!!!」と思って絶句したし、あの絶望感をいまでも強烈に覚えている。たぶん吉川英治版三国志で一番記憶に残っているシーンだと思う。

その時僕はそれらを物語として楽しんでいた、と思う。歴史として認識していたか怪しい。その後様々な人の手によって書かれた三国志を読んできて、それぞれに楽しんできた。北方謙三版の三国志は豪快に北方キャラクタに塗り替えられ、強烈な個性によって塗り替えられたし、まるで三国志を書くために今まで中国史で腕を磨いてきたのだといわんばかりの宮城谷昌光版の三国志は洗練された技の冴えを見せてくれる。漫画では横山光輝版が聖典となるだろう。三国志正伝を元にするか、三国志演義を使うのか、はたまたミックスさせるのかと人それぞれだがおおまかな筋が一致している三国志という聖典において、ほとんど同じ話になってもおかしくないのに、みなそれぞれ違った魅力があるものだ。

酒見賢一版三国志の魅力とはそういう意味で言えば、どこにあるのだろうか。特徴的なのはその語りのスタイルである。小説という体裁をとっていながらも、地の文には常に作者の顔が見えている。ここは、おかしいのではないか? 納得できないぞ、きっとここはこういうことだったのだろうと、小説として進行する三国志の物語の合間には、常に酒見賢一のツッコミ=批評が挿入される。重要人物が死ねば、その人物が今中国でどのような扱いになっているのかに触れたり、あるいは歴史をいったんそこでまとめてみせる。三国志小説には必然、三国志という史実への、著者の批評観が挿入されるものなのだ。それはあくまでも書かれた結果として「これが著者の見解なのだろう」と事後的に納得されるものだが、酒見賢一版三国志ではその批評が明確に前景に押し出されて小説と一体化している。

 英雄豪傑どもの果てしない戦いの背後では、老人幼少が分け隔てなく大虐殺され、女はさらわれ、見境無く繰り返し繰り返し強姦されているのであり、残虐この上なく、『三国志』には踏みにじられた人々の怨瑳の声が満ち満ちて抑圧され秘められているのである。『三国志』を面白がっていいものかどうかいささか悩むところである。
 英雄連中もしょっちゅう二十、三十万の大軍を起こしては火で燃やされたり、河江に沈められたり、得体のしれない罠にはまったりして、虫けらのように殺されてゆく。それを、
「乾坤一擲の大智謀、秘計が当たったわい!」
 と喜んだり、褒めたり、けなしたりし合っているのである。人間の知性は『三国志』では、人殺しに用いられるばかりである。紛争解決にもっとよい知恵を出すのが知性というものだろうと思いたい。敢えて人類とは度し難い生き物だという事を示したいのか。*1

これは、僕には衝撃的であった。最初吉川英治版で読んだ時に、ほとんど無意識的に感じていた「おいおい、そんなのありかよ!」とか「そんなのってなくない??」という疑問に、一緒によりそい、おかしなところは指摘し、笑い、あるいは懐疑的なところには疑問を出してくれ、わかりにくい部分は解説し、そしてある場合には酒見賢一解釈を押し出してくれる。三国志という歴史は、もちろんそこにありのまま起こったことが語られるわけではない以上無茶苦茶なのだ。だからこそ小説にしてそこに理屈をつけたり、解釈がばらけるともいえるが、この『泣き虫弱虫諸葛孔明』の場合は、まるで酒見賢一が語る三国志を酒見賢一と一緒に閲覧しているような気軽さと楽しさがある。

三国志という類まれな英雄豪傑譚に、酒見賢一という優秀な批評家──あるいはツッコミ屋、物語り屋を先導者と同時に随伴者として浸れる喜びが、この『泣き虫弱虫諸葛孔明』という物語には満ちている。歴史家のE.H.カーは著書『歴史とは何か』の中で、次のように語っているが『歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります』これなどまさにある意味では酒見賢一がこの小説でやっていることだ。一編一編、一エピソードごとに、現代的な酒見賢一解釈で語りなおしていくこと。完全な小説として書かれたのであれば、解釈は少なくとも書かれた文章としては一意に確定されていってしまう。しかしこの『泣き虫弱虫諸葛孔明』のように、小説として書かれた部分の合間合間に著者自身が「どうなんだろうか?」と疑義を挟んでいくことによって、「歴史を歴史として語ること」「歴史を小説として語ること」とはまた別種の語りを獲得しているのだ。

わかりやすく笑える部分がある。たとえば呉勢が広島弁のヤクザっぽい口調で喋ったり、徹底的に孔明や張飛がキチガイのように描写されていくなどなど。しかしこれらはあくまでも原典を参照した描写であり、そうした笑いは笑いのままではなく、シリアスな場面ではシリアスにキメ、郷愁を誘う場面では、きっちりと落としこんでくる。笑いとシリアスと歴史批評的な側面と、さらには物語として純粋に面白いものを構築できる柔軟さ・縦横無尽さが酒見賢一の視点(とそこからくる文体)にはある。一言でそのスゴさを表現するならば、彼の書く物語は徹底的に自由だ、となるだろう。

僕はこのシリーズは正統的な吉川英治版など、せめて横山光輝三国志でも読んで、「ベーシックな三国志」イメージを頭にいれて、そこからのズレを楽しむのが一番いいだろうと思っていた。しかし今回四部を読んでいて、このシリーズから三国志に入ってもいいのではないか、と考えなおすことになった。一にして十を兼ねるというか、笑いから郷愁までをカバーし解釈のゆらぎまでを捉えられる、幅の広い小説だ。※以下にて四部の感想も付記。三国志だからネタバレも何もないような気がするけど一応。

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第1部〉 (文春文庫)

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第1部〉 (文春文庫)

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第2部〉 (文春文庫)

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第2部〉 (文春文庫)

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第3部〉

泣き虫弱虫諸葛孔明〈第3部〉

泣き虫弱虫諸葛孔明 第四部

泣き虫弱虫諸葛孔明 第四部

三国志は、一応元が史実になっているものだから、物語的なわかりやすい「期待」に答えてくれないところが多々ある。英雄豪傑が集まってくる、魏呉蜀、天下三分の計だ! といって各地に戦力が終結していく、人材集め戦力増強パートは本当に面白い英雄譚だ。どいつもこいつもキチガイばかり、人を殴り大量の人間を焼き殺す。そしてあの有名な赤壁の戦いでは何万もの人間が死んでいく壮大な大決戦だ。人間の死体は飽きるほど地面に転がっていただろう。日本史とは戦力の投入量においてレベルが違う。が、その後はそれまで築き上げられてきた英雄たちはみな次々と去っていく。劉備も張飛も関羽も曹操も周瑜もみな死ぬ。そして愚鈍な君主に悩まされ孔明は四苦八苦して蜀という国を運営していく。それはまるで宴の後のような寂しさがあるが、仕方がない。歴史は続くのだから。

第四部、赤壁が終わった後の物語だ。この後の寂しさはもう何度も読んできた。だからこそ興味は、酒見賢一はこの物語をしめられるのだろうか? ずっと描写してきた孔明という男は、人が死んでいく悲しさをどう表現されるのだろうか? というところにあった。結論からいえば、やはり孔明は泣き虫であった、というところにあるのだろう。よく死に、よく泣く。物語として見た時、勢力は既にその戦力をほぼ揃えつつあり、細かい政治的やりとりが増え、後継者問題が増え、戦力を分散させる要素が増えてくる。桃園の誓いの三人も、ばらばらの戦場でばらばらに戦うことになってしまって絡みが極端に少ない。元気で敵を火炙りにしていた頃の彼らを知っているから切ないものだ。また仲良くみんなで、同じ戦場で、敵を焼いて欲しかったなあ。

また物語としてつまらないのは関羽も張飛も劉備もみんなあっさりと退場になってしまうあたりにあるだろう。死ぬほど大暴れしたあと華々しく散ってほしいものだが、関羽はあっさり討ち取られ張飛は部下にやられ劉備も曹操も戦場じゃなくてちゃんとおうちで死んじゃうし。死ぬ時に、それぞれに簡単な酒見賢一のまとめも入り、これはやはり面白い。しかし本当の意味では、総評と言った形ではまとめきれぬものだろう。いわばこれまで書いてきたものすべてが酒見賢一による曹操評であり、劉備評であり、関羽評であり、張飛評なのであるからして。

 とても変な人だった。で片づけたいが、魔性といってもいい人望がそれを許さない。十万人の避難民を惹きつけた魔力はなんだったのだろう。それに人を見る目が抜群によく、多くの有能な人材に慕われた。しかし一方で、関羽、張飛との義侠の愛に燃えながらえこひいきし、最大の発掘物の孔明とは水と魚の関係となった。しまいには蜀のほぼ全軍を率いて呉に挑み、惨敗してしまったが、恨みの声があまり聞こえてこない不思議さがある。蜀は精鋭の兵を失い、数年は立ち直れないほどなのに。
 そしてイイ悪いはおくとして、孔明にすべてを任せて死んでいった。そのことが後世とても評価された。これが劉備玄徳の玄なる徳の由来なのであろうか。

さすがに長い間一線で笑いを起こし、逸話の数々をつくりだしてきた劉備さんがいなくなってしまうと物悲しいトーンになる。泣き虫弱虫諸葛孔明はやはりあくまでも孔明を中心とおいた物語だが、劉備はいわばバディ・相棒であったのだから。恐らく次あたりでこのシリーズも終りを迎えるのであろうが、はたして酒見賢一は英雄豪傑たちがどんどんいなくなり、苦境に立たされ続ける孔明をどう描写していくのであろうか。今後は物語的に盛り上がるエピソードもそう多くはないのだが(死せる孔明生ける仲達を走らすなどあるけど)、それでもこの夢の跡の現場を描いていく能力をみるに、期待しても問題ないであろう。

*1:泣き虫弱虫諸葛孔明〈第1部〉