基本読書

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グッデイ (ビームコミックス) by 須藤真澄

我々は今のところ将来的に全員死ぬ。

小学校入学より確実に死ぬのだから、みんな準備しておけばよく、なぜそれじゃあこの世界では死別がとても悲しいものかのように描かれるのだろうと不思議に思うところだ。しかしそれはいつ死ぬかはほとんどの場合、当人にすらわからないからだろう。余命3ヶ月ですと言われて意外と何年も生きたり、あっさりと3ヶ月も経たずに死んだりする。死は平均寿命などもあって悲しみに拍車をかける。たとえば日本において3歳などで死んだら悲劇だろうし、20代30代40代で死んでも早い死ということになるだろう。「もっと長く生きていられた可能性があった」という期待が裏切られたからこその悲しみであり、生きていれば存在していたかもしれないやりとりがもはや発生しなくなってしまったことによる喪失感なのだろう。

本作『グッデイ』は死を扱った連作短編集だ。コレ一冊でキレーにまとまっている。あたたかな絵柄で、悲しいだけの死ではない、死にいたるさまざまな生の形を描いていく。死ぬ当人、親族、ほとんど無関係な人……死ぬというイベントが起これば、周囲の人間をそれなりに引きずり回すものだ。このあたたかさが伴った死への手触りが独特で、どの話も芯にある部分は一緒だが、魅せ方が全然違ってぐっとくる。途中から涙が止まらなくなり、一度最後まで読んでからまた最初から読むことで二度泣ける。長い漫画に毒されてしまった体が良質な一巻漫画を求めてやまないが、本作はその中でも最高レベルの品質だ。

世界観として我々の世界と一点だけ異なるのが、この世界では玉迎えという現象が存在しているところにある。これは突発的な事故などではなく、体の寿命で亡くなる方の体が、その前日に突然球体に見えることをいう。誰もが球体に見えるのではなく、玉薬と呼ばれる薬を飲んだ場合、飲んだ人と誰かの組み合わせ(これは一つしかない)によって、組み合わせがばっちりハマった人だけが死期が明日に迫った人の体を球体に見える。それ以外の人はいつもどおりの、普通の体型に見えているのだという。

この組み合わせも、家族や親族、友人関係のような近いものに限らず見ず知らずの人間の間で起こる。だからすべての人にこの玉迎えが起こるわけではない。たまたま、道でみかける。たまたま、家族が組み合わせ対象だった。え、見ず知らずの人間が球体に見えたら、どうしたらいいの!? と真っ先に疑問に思うところだが、そういう時に、ほとんどの場合前提として「ひとまず本人には知らせず、家族に知らせること」という常識があるようだ。ただこれは別に法律で決まっているわけでもなく、本人の良識に任せられていると言ってもいい。忙しくて見てもスルーする人もいるだろうし、家族を探すのが面倒で単刀直入に本人に言ってしまう人もいるだろう。

基本的に一話につき一人、玉迎えが起こった人がその死の前日をどのように過ごすのかを中心におっていく。家族が組み合わせ対象だった場合は幸せなパターンだろう。家族仲が良ければ、それとなく親族を呼び寄せてくれて、普段食べるよりちょっと豪華なものを食べさせてもらい、そしてゆったりと明日を迎えることが出来るかもしれない。普段会わない孫や息子、娘が集まってきて、ゆったりといつも通りに犬の散歩でもして、最後にああ、いい人生だったと思えればそんなに良い終わりもそうそうない。逆に、見ず知らずの人間を球体に見てしまった場合は、見てしまった人も大変で、「うぎゃあ、なんとかしてあの人の家族に伝えてあげなくちゃ! それもできれば本人に知られないような形で!」と四苦八苦することになる。まず本人に知られずに接触するのが難しいよね。

死にいたる生の肯定

死を明日に迎えた玉迎えの人たちは、なぜ球体に描写されるのだろう? それは一つに魂迎え、霊迎えの読みの連想からきているのだろう。あともう一つ、球体は卵を連想させることも影響しているのかなと思った。卵、そこからまた産まれ得る、再生の象徴か。実際本作では死生観の一つとして輪廻や、死後の世界を想像させるような霊体なども描かれている。そして本作は一貫して死の前日を描いていくわけだけれども、実はそこには悲壮的な死は描かれなく、そこが最大の特徴といえるかもしれない。みなそれぞれ自分のやり方で自分の人生を振り返り、最後にやるべきことをやって、TODAY IS A GOOD DAY TO DIE、死ぬにはいい日だ、とでもいうように最後に見せるのはみんな儚げな笑顔だ。

それは輪廻や死後の世界があるからみんな肯定的に死ねるってこと? といえば、そういうわけではない。そうした世界観も描かれるが、それは単なるこういう価値観もあるよね、という一例として存在しているに過ぎない。では本作で描いているのは死の肯定でなければなんなのだといえば、死にいたる生、それ自体の肯定なのだろう。我々はだれでも死んでしまう。明日死ぬかもしれないし、明後日に死んでしまうかもしれない。90歳まで生きるかもしれないし、50歳で死んでしまうかもしれない。我々が死を怖れるのは消滅それ自体が恐ろしいからか、あるいは消滅に伴う苦しみ、苦痛が怖いのか。それはわからないが、「死を肯定」するのではなく、「死にいたる生」という避けられぬ物を絶対的に肯定することを描いているのは確かだと思う。

だからこそ本作で死に臨む人たちはみな朗らかに笑っている。自分の人生を振り返って、いろいろあったけれども、とりあえず今は満足だ、できればまた、この世界に生まれてきたいものだと人生を肯定してみせる。それは常に言葉で表現されるものではなく、ちょっと豪華ないつもどおりの日常を過ごすこと、ずっとやりたかったことを最後に一つだけやってみること、最後にたまたま居合わせた人と会話を交わすこと、といった様々な形で成し遂げられていく。僕はそれを読むことによって自分の死に思いを馳せ、はたしてこのように人生を肯定して死んでいくことができるのかと考えこんでしまった。たぶん読んだ人は誰しも自分のそのような問いを投げかけることになる。その問いへの答えが出るのは実際に、いざ本当に死ぬのだとわかった時にしかこないのだろう。我々は死ぬ。それはわかっている。しかしいつ死ぬかまではわからない。

本作にはいろいろな人が出てくる。死を告知されて慌てる人、淡々と受け入れる人、整理整頓し、死を目前にして自分が成してきたことを見てじわりと感じ入るもの、玉迎えにそなえて、死の前日にはあれをやろうこれをやろうと入念に準備を重ねてきた人──。周りの人も大変だ、死ぬのがわかっているから出来るだけその最後はいい日にしてあげたい。十人いれば十通りの、人生へのケリの付け方というものがある。どんなケリの付け方であっても、最後に自分の人生これでよかったんだと肯定できるなら、きっとその人生は、いい人生だったと言えるのだろう。

僕もできれば、まさに明日死ぬとなったときは、本当に楽しかった、また生まれて来たいと思いながら死にたいものだ。 ※同日発売でKindle版がありました。こういうの、嬉しいね。Kindle版で購入。

グッデイ (ビームコミックス)

グッデイ (ビームコミックス)