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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ニルヤの島 by 柴田勝家

一読してするりと飲み込める作品ではないが、その分きっちり読めば応えがある。こりゃまた随分とえらい変化球を投げ込んできたものだと拍手したくなる一作だ。

著者の柴田勝家さんは第二回SFコンテスト受賞作でこれが新人デビュー作だが、構成的にも語り的にもこれが一作目とは思えない密度。もちろんいろいろと荒いところがあるのは確かだし、断片的に語られていく形式と、その統合が表現的にこなれているかといえば、そんなこともない。それでもじっくりと断片を拾い上げながら最後まで読み、頭の中で統合して、「ニルヤの島」という景色を広げてみると、ああこれは凄いものを読んだし、物凄く読みづらかったが、この物語はこの形式でしか語りえなかったのだという静かだが深い実感がじわじわと広がってくる。

恐ろしいことに、4つのチャプターが入り乱れて話が進んでいき、最後にそれらが統合されるという形式をとっている。しかもそのチャプター内でも人物がぐるぐると変わり、時間も場面も飛びまくる。チャプター同士も時間軸が合わさってないから、時間も主観も空間もばらばらに配置され話が進んでいくわけで、把握しづらいことこの上ない。我々の主観は当然ながら時間軸にそって進んでいくし、時間が突然戻ったり先に進んだりしないし、別の人間の視界が割り込むこともない。だからこそ小説もそのルールに則ったほうがわかりやすい。それが全部ばらばらになるとそれ相応によくわからなくなってくるのは道理だ。しかしそんな無茶を一作目としてぶっこんで、完全に成功しているとはいわないまでもそれなりに形として成立させてしまっているのだから凄い。

あらすじみたいなもの

当然ながらそれら4つのチャプターでまったく別の時代も人間も出て、関係が構築されているのだから必然的にキャラクタも増えてくる。物語を語ることはある意味ではその世界で動き回るキャラクタを制御することでもあるから、デビュー作からキャラクタを多く出す人は珍しいタイプだと思うのだが、見事じーさんから子供まで年代も時代も思想も異なる人々を語り分けている。この能力だけでも第一作目としては圧巻だと思う。この部分についてはSFマガジンのインタビューを読んで納得いくところもあったかな。

柴田 そうですね。これもやっぱり民俗学の話につなげてしまいますと、資料として聞き書きをよく読むんです。すると、自分はこうだった、というように誰かが人生を語る文章がよく出てくるんですね。それを読んでいると、ああ、この人はこんな人生を送ってきたんだ、という想いが自然と、いくつか溜まってくるんです。それを引き出しのなかにしまっておいて、小説を書くときに取り出したりします。*1

4パートの内訳は、ノヴァクという文化人類学者を書いたパート、ヨハンナという模倣子行動学者を書いたパート、島でアコーマンという架空の盤上遊戯を続ける二人組のパート、刺青を入れた男と、それを見守る少女のパートで4パート。彼ら彼女らはミクロネシアを舞台にしてそれぞれ単なる学者やゲーマー、刺青ヤクザ……のような普通の人達ではなく、この世界で大きな役割を果たすことになる人間だ。また、キャラクタ以外の部分の説明にうつると、この世界では個人の意識は生体受像とかいうものを使って保存されて、死後も生前のログを引き出すことが出来るし、生きている間も、まるで人生をやり直すようにして何度も再生することができる。これがまあ、一番大きな特徴だろう。

これがあれば死後も、死んだ相手と何度でも再会することができるし、主観時刻も制御できるから自分の人生を一度読んだ本をめくり直すようにしてやりなおすことができる。結婚式で「ここが人生最高の幸せーー!!」となったら、その後夫がだらだらして優しくもなくなりときめきを感じなくなっても、何度でも過去を再生してときめきを感じられるわけだ。この技術により自らの存在は永遠に残り続けるようになり、永続性が担保され、それによって死が希薄化した。死が希薄になったら次に起こることは死生観の変化だ。この世界では死後の世界に救いを求めなくなり、多くの人間が死後の世界を信じずに暮らしているか、そもそも「死後の世界」なんていう概念をまったく知らずに過ごしている。

一方で、依然として死後の世界を幻視する人々もいる。地獄も天国も説かないが、ただ死後の世界の存在を説く宗教をこの世界観ではモデカイトと呼称し、彼らは人が死ぬといく場所を「ニルヤの島」と呼んだ。この物語に最低限方向性を与えるとするならば死後の世界というミームがなくなりつつある世界で、それでもなお死後の世界を理解しようという過程そのものになるだろう。みなそれぞれの事情から、死後について思いを馳せ、死後の世界という概念に惹かれ、理解する必要性にかられていく。ざっくりしすぎやんけ、とも思うけどあらすじを語るのがひどく難しい話なんだよね。Amazonのあらすじだってこれしか書いてない⇒『「死後の世界がない」ことが証明された時代。ミクロネシアを訪れた学者ノヴァクは、死出の舟を造り続ける日系の老人と出会う……驚嘆の文化人類学SF。』まさかの一行! 

なぜ人は意識の永続性を手に入れたにも関わらず、再度死後の世界を求める必要があるのか。ばらばらの4パートは個々人が線形に前に進んでいく四本線の物語というよりかは、「ニルヤの島とは何なのか」──またこの世界がこうであるに至った過程をパズルのピースをばらばらに当てはめていくようにして、浮かび上がらせる仕組みになっている。構成複雑、視点も複雑、ツンケンしていて付き合いづらいヤツだが、最後まで読んで4パートが結合されていく瞬間に、『ニルヤの島』についての理解が訪れ、本書に対する「付き合いづらいヤツ」というイメージはそのままに、印象は一変しているはずだ(ツンデレってことだなようは)。

そうか、これがやりたかったからこそ、この形式だったのだという納得。この結末に辿り着いただけで、この形式で読む価値があったと強引に説得させられる力技。これなら、多少わかりづらくても仕方がないというものだ。いくつかの先行作を彷彿とさせるけれど、単なるそれらのフォロワーというだけでなく、時系列も含めて個の意識がばらばらにされる語り。それらが当たり前に受容されている空気、そもそもの文化の語り方など、仕掛けもその見せ方も新しく、現代的であると思う。

これは単なる一読しての印象でしかないけれども、この作品から「どうしようもなさ」みたいなものを受ける。決定論的な世界観といってもいいのかもしれない。いろんなことが既に決まっていて、だけど我々は先に何が起こるかはわからないし、それらは全部そういうものなんだという*2。そしてそれが別にプラスの意味で書かれているわけでもないし、かといってマイナスの意味で書かれているわけでもない。ユートピアorディストピアという単純な二元論的な問いかけがバカらしく思えるような場所に本作はあると思うし、僕はその感覚に共感を覚えた。

柴田勝家さんについては容姿や名前と少量の発言だけが話題先行的にもりあがっていて⇒第2回ハヤカワSFコンテスト受賞者・柴田勝家さん(27)のキャラが濃すぎると話題に - ねとらぼ、これはこれでPR的な意味で良いと思うけれど、作品は作品でエキセントリック。※以下にネタバレでちょいと語りが入ってます。

ニルヤの島 (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

ニルヤの島 (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

違和感について

作中人類が死後の世界を生み出した理由として、人類は記憶の断片化、忘れ去られることを怖れたために「死後の世界」を夢想したと語られる。だからこそ忘れ去られることもなく、ずっと残り続けることのできる技術ができれば死後の世界はいらないねという理屈で進行していくわけだが、これがどうにも最初納得がいかなかった。端的に言って意味がよくわからない。僕は死んだ後灰になったらその辺のゴミ箱に捨ててもらってかまわないと思っているし死んだ瞬間に忘れられて良いと思うが(死んだら関係ないから)、怖いのは死んだらもう新しい意識の生成が行われないことだ。

そしてこの世界においても死んだら死ぬ。意識の生成は行われない。だいたいアーカイブ化されようがなんだろうが、知人なり友人なり再生する主観がいなくなってしまえば何の意味もないだろう。無限の本があっても目的のものにアクセスできなければ存在しないのと同じだ。死についての恐怖が多少希薄化されるとは思うが、だからといって死の恐怖がなくなるとは思えず、したがって死後の世界の必要性がなくなることそれ自体に納得がいかず、違和感となってずっと残っていた。が、再読して思ったのは、この「死後の世界の否定」それ自体もまたミーム操作によって生まれたものだったんだろう。

作中時系列的には恐らく「死後の世界はないという考えが広まる」⇒「急速に科学面が発展する」⇒「ミームコンピュータができる」⇒「ミームコンピュータがいったん消えかかった死後の世界を再構築する」となっていると思う。死後の世界はないとする考えが広まった時にミームコンピュータはまだなかったのだから、広がりようがないではないかとも思うが、別にミームコンピュータがないとどうにもならないわけではない。イエス・キリストだっているわけで。ロビン・ザッパくんが『天国のゆくえ』を出したこと・その過程で起こったことだと考えることもできるのではないかとも思う。ロビン・ザッパくんは最初のログの時点でミーム操作に触れた後『天国のゆくえ』発刊済み。『まぁ、そうした中の副産物である『天国のゆくえ』があんなに売れたのには、正直言って自分でも驚いているがね』と語っているし、彼には動機もある。

その後宗教対立じみた天国の不在と天国を目指す宗教、それを取り締まる政府と思想的ないざこざが起こるが、天国の不在を提唱する人間は『天国のゆくえ』を聖書のように崇めているようだ。死後の世界がないというミームが勝利し、それが多数派となったのち、死後の世界というミームを最初から一度も通過していない新人類が生まれてくる。彼ら彼女らはいってみれば死後の概念についてミーム的にはまっさらな状態だ。吹き出す水を無理やり出口を押さえつけていたように、個々人は実際は死後の世界を求めていたのかもしれず、抑えつけられてきた死後の世界概念と抑えをはねのけて噴出しようとする死後の世界概念、その葛藤の物語だとも読めるだろう。この認識は根本から間違っているような気もするが、こう解釈しないと逆に僕は根本から楽しめなくなってしまうのでこの解釈を採用する。

*1:SFマガジン2015年1月号

*2:ヴォネガットってこと? と知っている人は思うかもしれないがそれよりもっとフラットなんだよなあ