基本読書

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理不尽な進化 :遺伝子と運のあいだ by 吉川浩満

ダーウィンの進化論とはなぜこんなにも世間一般で誤解され続けるのか、また実際の進化論・自然淘汰説とはどのような理論なのか。また生物学という学問分野で起こった論争を丁寧に追って、分解し解説していくことで実証主義に重きがおかれる科学の分野でどのような論争と、その決着がありえるのかという科学の精神みたいなものまで教えてくれる良書だ。中学生ぐらいのちゃんとものを読んで理解できる年齢になったら、進化論を教えるための一冊としてこの本を常に教室に置いておきたいぐらい基本的な内容。課題として読ませておけばおそらくはその後進化論について現在おもに流通しているような意味では使わなくなるだろうと思う。もちろん、現実的には無理だろうけれども。

進化、というのは厄介な言葉だ。何しろ進む、化だ。化はまあとりあえずおいといても、進んでしまうのであるからして、進化した! といったらやはり、そこには「良くなる。改良される」といったイメージがついても仕方がないことだろう。ところが実際ダーウィンが提唱しているところの自然淘汰説は、一言も「優れた物が生き残る」なんていってないし、生き残ったからそれは優れた生き物だということにもならない。生き延びて子孫を残したものは、強かったからでも優れていたからでもなく、ただ単に「たまたま生き残った=環境に適応している」だけのことである。

たとえば、一般的な意味での恐竜は絶滅した(恐竜は絶滅していないという話もあるが、それはまあおいといて⇒鳥類学者 無謀にも恐竜を語る (生物ミステリー) by 川上和人 - 基本読書)。それじゃあ恐竜は遺伝子的、能力的に優れていなかったのか。身体がでか過ぎたり、自分たちの中に滅びゆくのもしかたがない欠陥を抱えていたのか、といえばそういうわけでもない。単に隕石の衝突などの外的な要因によって地球環境が一変し、それまでの環境には非常に有利に適応してきたいわば「勝ち組」としての恐竜が突如変更された環境ルールによって「負け組」へと変貌してしまったのだ。これと類似の事例はいくらでもある。天敵のいない島でのんきに暮らしていたドードーは、人間に発見された後外来種によって卵を捕食されつくされ絶滅した。「たまたま」ドードーのいるところには外的がいなかったからである。

つまり、絶滅は理不尽に起こる。生き残っているものは、突然変異でたまたま生き残るのに都合がいい変化が起こったり、外部の環境が激変したり、そもそも外敵が一切居ないようなラッキィな環境にいたりと「たまたま」生き残っているにすぎない。キリンの首が長いのは、単に高いところにある食べ物が食べられるように適応していった結果ではなく、たまたまそうした変化をした種が生き延びてきただけである。一方で我々がビジネスや広告の世界で目や耳にする、環境に適応していかなければいけない、生き残るために進化しなければならないという時の進化とは、一般的な進化論の意味とはまったく違うもの、キリンがまるで生き延びるために首を伸ばしたような意味が込められている。

 そこで詳しく見たように、運がわるくて絶滅するとは、理不尽な絶滅をするという意味だ。それは、能力(遺伝子)を競うゲームが、運によってもたらされるような事態である。ゲームの中身は公正かつ公平なものであっても、ゲームへの参加自体が不公正かつ不公平なしかたで強制される。それはある種の(というか、文字どおりの)サヴァイヴァルゲームではあるけれど、生物の実績や能力(遺伝子)と関係なく存亡のルールが設定されるという、不公正と不公平に満ちたサヴァイヴァルゲームだ。生物はこのような奇妙なゲームのプレーヤーとして、理不尽なしかたで絶滅し、あるいは生き延びて進化するのである。

とまあ、しかしここまではちょろっとまともな進化論を扱った本を一度でも読んでいるのならば、問題なく把握していることだろうと思う。真新しさは特にないし、丁寧な仕事ではあるものの、単なるまとめだ。ステキな仕事ぶりだなと思ったのはここから崎で、著者は「なぜそれでは巷の進化論イメージはこれほどに誤って、誤りつづけているのか、そこに理由はあるのだろうか」と問いかけていく。「進化論って言葉が悪いんじゃろ」ぐらいにしか考えていなかったが、なるほど考えてみれば進化論それ自体が、誤った使い方を誘発する「便利さ」に満ちた言葉でありアイディアであるというように「誤解を理解」できるようになるだろう。

まず最初に著者がひいてくるのは哲学者の鶴見俊輔が「言葉のお守り的使用法について」で指摘した言葉の分け方についてのアイディアだ。ここでは言葉を「主張的な言葉」と「表現的な言葉」とに大きくわけている。前者は実験や論理によって真偽を検証できる言葉、まあ2×2は4であるみたいなこと。あのお店のランチは1000円です、とか。後者は相手になんらかの影響を与えるための言葉だ。好きです、嫌いです、バカですね、とかになるだろう。で、これら言葉の使用法が厳密に分かれていれば問題ないわけだけど、実際はそうではない。科学的な正確さがある主張的な言葉を装って、説得力増強の為表現的言明として用いられることがあるのである。

たとえば「我々は生き残るために進化しなければならない」というのは、発破をかける意味で表現的な言葉に属するが、そこに科学っぽく振舞っている「進化」という主張的言葉っぽいものを混ぜ込むことで、なんだか科学的な説得力があるような気がしてくるだろう。もっともらしさがある。我々が広告などで出会う進化論系の言葉は、ほとんどがこのニセ主張的な言葉だ。なにしろ実際には進化とは理不尽なものなので、一般的にはあまり使いドコロを思いつかない。理不尽なことに直面した時に「まるで進化論だよ!」と使えるかもしれないが、たぶんほとんどの人は理解してくれないだろう。

また進化論の言葉のお守りの根っこには、適者生存という自然淘汰の言いかえの中に存在しているトートロジーっぽいところが関係しているという。だれが生き延びるのか? それはもっとも適応した者だ。とくればだれがもっとも適応しているのだ? と問いかけたくなるだろうが、その場合の答えは「生き延びた者だ」と答えるほかない。これじゃあ何も言っていないのと同じことだ。え、じゃあ自然淘汰ってのは何も言っていないのに等しいってことなの? といえば、そんなことはない。

ダーウィニズムは、十分に信念や信仰とは異なる実証的に研究可能なもので、単なる命題としてのトートロジーとして非難されるものではない。しかし適者を事前に定義することはできず、適者を語る上ではトートロジカルに定義される他ないことから、トートロジーとしての適者生存はダーウィニズムは経験的研究を可能にするための条件なのだ。そしてこのトートロジー性、絶対に議論に負けない便利さこそが「適応できなきゃ淘汰されるだけ」と便利に反論不可能な言葉として使われてしまう理由の一つなのだ。しかも「彼が結婚してないのはなぜ」という問いかけに「彼は独身だからさ」と答えるのとは違って、「哺乳類が絶滅しなかったのはなぜ」という問いかけに「哺乳類が適応したからさ」と答えるのは若干のもっともらしさが伴う。これは言葉のお守りとして、非常に便利だよねというお話。

ここまでで大体本書の半分ぐらいだろうか。この後に他のダーウィン以外の進化論の説明や、科学者間では完全に意見の一致があると一般的には思われている進化生物学分野において、著名なな専門家同士の間で巻き起こった議論(グールド、ドーキンス)を中心に進化を巡る歴史を丁寧に読んでいく。こちらはこちらで、さまざまな議論の俎上に載せられ、そうした議論にもラクラクと耐え切ることができる進化論そのものが持っている奥深さ、幅広い適用範囲など複雑さが増していくゆえの魅力に満ちているのだけど、込み入ってくるのでこの記事では特に紹介しない。もちろん学問的にはグールドの主張には大きな穴があることに触れながら、グールドが敗戦濃厚な中それでも挑み続けた「意図」を読み込んでいくのは、面白い作品批評を読んでいるようなノリがあって正しいかどうかは別として純粋に楽しめた。

生物系のノンフィクションを好んで読んできた人にはお馴染みのグールドとドーキンス論争への新しい読みとしての面白さが、一方ほとんど生物系に触れてきたことがない人にとってはそもそもの進化論解説としての面白さがそれぞれ保証されている良書だ。それに、進化という言葉が都合よく使われていく過程と、理由の分析や科学者がどのように議論を進めていくのかという誤解や訂正のプロセスは、進化論を超えて幅広く適用できる法則であるとも思う。説明がくどいが、全体的に読みどころが多い。

理不尽な進化 :遺伝子と運のあいだ

理不尽な進化 :遺伝子と運のあいだ