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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

太陽・惑星 by 上田岳弘

世の中には「こいつは文章を、物語を書くために生まれてきたような人間だ」と思わせるような圧倒的な力を感じさせる作品を出してデビューする作家がいるが、久々にその感覚を味わった。

唖然とするような発想。それをバカげた話で終わらせない説得力。最終的にこれらをまとめあげる、一片の淀みもなく駆け抜けていく文章力。どれを取り上げても圧巻の才能だ。特筆すべきところは、人間の歴史の中に生きる個人の心に詳細に入り込んでいくのではなく、突き放して外から人間行動の歴史を眺め、さらにはこれから歴史になるであろう未来まで含めて観察しているような超越的な視点。「いま」からも「個」からも解放されて縦横無尽に総体としての人類という種族と、その終結までを書ききってしまう、徹底的に焦土にしてやろうとでもいうような「やり尽くしてやったぜ」感。中盤にいたって立ち現れてくるでかすぎる発想を聞いて笑い、そして終局に至ってそこまで書ききったことに唖然とする。そういう凄い小説が、いきなり書けるんだから著者は何かがおかしいんだろう。

ちなみに『太陽・惑星』という書名だが、一個の話ではなく太陽と惑星の、それぞれ別個の(ただし一部人物が共通している)100ページちょっとの2編から成り立っている。

太陽・惑星

まず『太陽』の話からはじめよう。冒頭からかっ飛ばしている。これが一ページ、一行目だ。

厳密に言えば、太陽は燃えているわけではない。
燃える、という現象は熱や炎を伴った急激な酸化を指すものであって、太陽の輝きはそのような物質と酸素が結合する現象とは違うものである。あれは、原子核同士が融合しているのだ。

太陽の話であるだけにいきなり太陽の話から始まっている。そして約1ページ半太陽の説明を続け、話が太陽の終焉、質量がある閾値を超え、自重に耐えられず押しつぶされ爆発し爆発のエネルギーによって鉄より重い元素への核融合化しそしてついに最終的には金が生まれる──といったところまでいってようやく人間が出てくる、それも唐突に。『太陽から数えて3番目の惑星の住人、春日晴臣の欲するものは太陽からは生まれない。』太陽の話からはじまり金の話で終わったと思ったら春日晴臣という大学の教授職にあり第2・第4金曜日は女を買うことに決めている男の話が始まる。

マクロからミクロへ──。太陽の話をしていたと思ったらその次のページでは男がデリヘルで女を買う描写を延々と続けるのだから読んでいるこちらがわからすればいったいなにが始まったのかわからないところ。この後も時折太陽について、錬金術について、そして未来の人類の形態についての記述を間にはさみながらデリヘルで女を買う男、デリヘルで働く女、アフリカで赤ちゃん工場を経営する男、またその息子にしてパリの露天で非正規品のキティちゃんを売る男、まったく無関係にばらばらに存在していた人間が出会い、組み合わさり、子供を産み、9代後の子孫の話などを交えながら歴史を前へ進めていく様子が描かれていく。

この不可思議な話はいったいぜんたいなんだったのか。太陽と錬金術の話は何の意味があるのか、これは普通の、現代を舞台にした文学っぽい話なのか、はたまた太陽の話からはじまったし、なんだか時々未来の話が入ってくるし、SFなのかもしれない。歴史を俯瞰してあらゆる時間軸を移動しさまざまな人間の内面を把握しているこの語り手は誰なのか。何が何だかよくわからない。ぐるぐると疑問が増え続け、解決されることもなく、渦巻くまま読み進めていくと唐突に田山ミシェルという名前、そして「人類の第二形態」なる単語が現れるようになる。

第二形態!? 第一形態は現代人たる我々のことにしても人類の第二形態とは何なのか。この語り手によると、デリヘル男と女が生活している時代から9代後の人類田山ミシェルの時代にはあらゆる個の内面は人類の共有物となっており、当然ながら不死であり、どのような感情も能力もパラメータとして操作でき、それ故に起こり得ることはほぼすべて経験可能である。怒りも、喜びも、あらゆるパターンがチェックポイント化して網羅されている。自殺は禁止されているが、チェックポイントをすべて消化したら死んで良いとされている、無茶苦茶な人類が語られていく。

ドンゴ・ディオンムの9代後の子孫である田山ミシェルの存命中にも、偶然賛美の大きなムーブメントが何度か興った。中には偶然崇拝主義者と呼ばれるほどに先鋭化した集団もあった。偶然崇拝思想は、西暦の節目に起こりやすいようだった。その思想に染まりきった者は、ルーレットのようなものを使ってこの先も生を続けるかどうかを決めるのが常だったが、厳密に言えばそんなものは偶然とは呼べないだろう。この当時、自殺は歴とした違法行為である。感情・思考パターンの全てを消化して死んでいく「消化死」との区別が明確にされた。死ぬまでに経験しておくべきそれらのパターンは、人生のチェックポイントとして整理され、のべ人口に比例して増加し、細分化されていく。

あらゆる感情、あらゆる気持ち、あらゆる思考を経験しているのだから、もういいでしょうということだ。第一形態とはつまるところ今を生きている我々の生活のことだが、第一形態的な不都合な人生、限りある生ゆえの芸術的なきらめきに郷愁を感じ、一方で第二形態人類の在り方に疑念を感じることもまた、チェックポイントの1つになっている。チェックポイントへの疑念自体もチェックポイントになっているのだから本当にあらゆるパターンを網羅しているのだといえるだろう。しかしチェックポイントをすべて通過してしまったらどうしたらいいのだろうか。もう何もやることがないではないか、となった人類が次に迎えるであろう形態もまた考案されている。ことそこまで至って人類は第三形態に移行するのだろう。

しかしここでは田山ミシェルの話だ。田山ミシェルは退屈している。田山ミシェルは現状に満足できず先鋭化した、おそらく有能な人物だ(ここにいたって人物と形容するのが正しいか不明だが)。第一形態の人類まで自身を落とし、様々なパターンを経験していくうちに強烈な個への欲望と第一形態人類が必死こいて辿り着いた到達点であるはずの第二形態人類としての立場から、それでもなおこの生は退屈であると断言してみせる。その退屈が行き詰まった先で、田山ミシェルはふと「金をいっぱい作るんです」とメディアを通じて宣言する。太陽を用い、とてつもない質量で核融合させ、その過程で人類は焼け死ぬことになるだろうが、太陽をまるっと金にしつくすのだ。人類全体を焼きつくしてまでこれを実行する意味などない。強いて言えば、まだ誰もやったことがないというぐらいのことだろうか。しかしとっくに生きることに飽き飽きしていた人類は総意として田山ミシェルの案に納得し、実行されることに決まる。

この中編を──というか『太陽・惑星』を支配しているのは「個」ではない。それは何十年何百年といった単位で人間の動きをとらえた時に浮かび上がってくるものであり、あるいは確率で人間の動きを考えるような総体としての揺らぎである。時間超越的かつどんな人間にもその精神を理解できる立場から眺めているかぎり「いま」にも「個人」にも意味はなく、すべてが「いま」であるともいえるし「わたし」ともいえるだろう。それらはすべて起こってしまった事であり、これから起こることでもある。本書の中編『太陽』も『惑星』もそのような視点から書かれている。

そうなるともはや未来まで含めた歴史は線形に紡がれてゆくものではなく、一個の構造物としてあらゆる部分をしげしげと眺められる概念になる。『太陽』において超越者的な視点はこの立場から「太陽」の物語を語っており、『惑星』の超越者的な語り手、こちらは最終結論と自分のことを語る人間が『惑星』という地球の物語を語る。そのどちらも、話の行き着く先は無茶苦茶だ。今、我々の世界はこのような原理が支配しており、だから、未来は大雑把にいえばこうなるよねと起点としてはまっとうに語っていく。しかしその論理の行き着く先でなぜか「太陽をめちゃくちゃ核融合させて金をつくるお!」「地球の生物何もかもが待ち望む最高製品をつくるお!」とめちゃくちゃな方向に舵をとってそれを緻密に描写して、強引に制御してみせる。

おいおいおいおいと。太陽を金にするってなんなんだよ、とツッコむ間もなく、人類の総意としてその提案は可決され、人々がそのような可決をする心理状態にもまあ納得がいってしまい、準備は進む。一方で「なぜ人類はそんな状態に至ってしまったのか」も並行的に語られていくと「もう個々人の動きがどうこうは関係なく、これはそういう人類の定められているムーブメントで、こういうものなのだ」とあきらめの境地に至り、呆然としている間に事態はぐんぐん進行し、終結を迎える頃には「もうどうにでもしてくれ」と言わんばかりの場所まで連れて行かれている。

結末に至って存在しているのはもはや「終末」としか言い様がない何かであり、わずか100ページちょっとで現代から終末までを高圧縮して脳に叩きつけられるハメになる。

語りに自覚的

これが初の著書であるから他の作品はまだ世に出ていないわけだけど、この二編を読み限りでは「語り手問題」に自覚的な作家だ。語り手問題とは何かといえば(僕が今思いついて適当に名づけたヤツだけど、たぶん一般的には別の名前がついていると思う)、たとえば小説には三人称、二人称、一人称などの人称の形式がある。私は〜〜だと思った。彼はは怒っているように見える、と主観的に語るものが一人称で、吉澤吉見はトイレに入り、一方その頃下北三郎は下北沢でゴルフをしていたというような超越的に俯瞰して描写するのを三人称というようにまあだいたい分かれていると考えればよい。

この語りの問題は「一人称で語っている人は何のために語ってんの? なんで突然自己紹介とかはじめるの?」、「この三人称形式でいろんな人の行動を描写しているのは誰?」という、そもそもの語りの理由、語り手の存在が不明であるところにある。もちろん大抵の場合我々は「それはそういうものだ」「三人称の書き手は無、あるいは作者だ」と了解して読んでいるのだが、この語りの問題をクリアするように書く作家もいる。「作中人物の手記です」と言ってみたり、あるいは誰かに語りかけているのだったり、あるいは実際にその世界を俯瞰してみている神がいるんだったり。この語り手問題のクリア自体は別に珍しいものでもない。

著者の上田岳弘さんも語り手に明確な理由と顔を与えている。たとえば『太陽』では、最初は普通の三人称のように記述しておきながら途中で三人称視点の「個」がいることが明らかになる。超越論的に歴史を俯瞰してみれる立場の人間が存在可能な世界観だからこそ可能な力技だ。一方で『惑星』の方では、最終結論と名乗る未来に起こることも人が考えていることも既に了解している個人がメールを重要人物に送り続ける形式で語られている(つまり小説=メールの文面)。未来に起こることや自分以外の個人の内面を了解しているという意味では「三人称的」であり、個人が語っているという点では「一人称的」であり、しかもそこで書かれたものは「メール」であることから語りの問題が完璧にクリアされている。

別に語りの問題は「クリアすれば面白くなる」というものではない。ものではないが、これは物語る上で絶対的についてまわる穴だともいえ、そこをまず自覚的に塞ぎにくるのは物語ることへの一つの誠実さの形であると僕は思う。何よりこの作品の場合、人称の問題が物語に密接に関わってきている。少なくとも『惑星』は、この一人称と三人称が入り混じった「個」と「全体」の間をゆらゆらと揺れ動く、しかも明確に顔を与えられてしまったがゆえに「信頼性」まで揺らぎのある語りでしか達成できない中編だ。語りが物語に強烈に意味を付与していて、1.5人称(三人称でもあり一人称でもある形式の形容をここでは仮にそうする)という語りの形式をここまで物語上意味があるものとして組み込めている作品はなかなかないですよ、ほんと。

おわりに

『惑星』にざっくりとしか触れられなかったが、まあとにかくこの二編だけで異常な才能だと断言してしまってもいいだろう。文章も、構成も、発想も、おそらくは著者が世界を見ている視線も、ずば抜けて可笑しい。二編とも未来と過去を了解している超越的な存在を前提とした「今」をあやふやとした作品になっているが、これは何か時代性を意識してを意図的に狙ってやったものなのか、それとも著者自身の感覚にそって立つものなのか、はたまた同時的なものだろうか(ほぼ同時期に出たニルヤの島 by 柴田勝家 - 基本読書 もまた、時間と個を超越して飛び回る話だ。) 。それもまた次作以降作品を重ねることで明らかになっていくことだろう。

本作で徹底的に書ききってしまっているだけに次作以降が本当に書けるのか、あるいはこれ以上のものが書けるのかと心配になるレベルだけど、それでも軽々と期待のハードルを越えて行ってくれるのではないかと思わせるだけの「余裕」もこの二編には現れている。いやー、次作以降が本当に楽しみだ。

太陽・惑星

太陽・惑星