基本読書

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宇宙船とカヌー (ヤマケイ文庫) by ケネス・ブラウアー

これは随分と読後感が不思議なノンフィクションで、お気に入りの一冊になった。タイトルがシンプルなのと、モノクロの表紙写真も素晴らしい。フリーマン・ダイソンなる著名な物理学者と、その息子でこれまた著名なカヌー・ビルダーであるジョージ・ダイソンを主軸に扱った伝記作品。父はばりばりの合理主義者で、物理学に向き合う人間であり、息子は山や舟の中にこもり木と向き合って暮らすばりばりのエコロジストである。普通なら混ざらない二人のように思うが、なにしろ親子なのでそういうわけにもいかない。

その正反対な二人の伝記というだけでも充分に変てこな本になったと思うが、本書の著者であるケネス・ブラウアーはジョージの旅に同行したり、カヌー作りを手伝ったりと、「観察者の視点」を捨てて自分自身がこの物語の一員となってしまっているところもまたおかしい。伝記の枠を超えていて、体験記のような魅力もある。彼はその中でジョージの反合理的な(占いでその日の行動を決定するような)行動原理に納得がいかなかったり、フリーマンの宇宙への過剰な憧れに疑問を持ってみたりと二人の間でバランスをとっているようにみえる。

しかしこの本を読んでいて面白かったのはいろんな「分かち難さ」みたいなものを感じさせるところだ。自然と物理学、宇宙開発とカヌー作りというとまるで正反対のような気がしてくる。ついつい両極端なんて表現を使ったりもしてしまう。が、実際には物理学者がすべてにおいて合理的なわけもない。カヌーを作るのにも小屋を作るのにも、自然から自然を産み出す行為は計算を必要とするし、素材への科学的な理解が不可欠である。占いをするのにはある種の「理屈」を必要とするのだからこれもまた合理的だとはいえるのだろう。自然もまた宇宙の一部である。

ようはたやすく両極端などといえるような属性は人間に与えることは到底不可能だということだろう。また、分かち難い親子の物語でもある。長い間会うことのなかったこの親子だが、話の締めとして最後に再会する過程が描かれる。久しぶりにあった息子は大きく成長していて、独自の価値観と世界観を築き上げている。しかし親と子を繋ぎ止めるものなんて、遺伝子的に繋がりがある程度のことで物理的に紐で繋がっているわけでもないのだから、価値観が合わず会う必要性がなければ二度と会う必要なんてないのになどと考えてしまう。それでも会おうと思うものなのだろうか。そうした意味でも「分かち難さ」みたいなものを感じた。

科学と自然の分かち難さみたいなことは、別段直接的な意味で書かれているわけではない。ただカヌーを木材の切り出しから作っていくところと、推進剤や遠い小惑星の話、宇宙ステーションの話などが平行していくのでどうしても考えないわけにはいかない。たとえば最後、フリーマン・ダイソンは息子との再会の過程で見た息子の仲間達を見て、入植された小惑星にまで受け継がれるものはなんなのかについて考えたりしている。どちらからも活用しようと思えばいくらでも想像を広げていく為の種は広がっているのだろう。

さて、実をいえば逐一の説明が不可能な微細な部分が大変おもしろかったりする。時たま挿入される。フリーマン・ダイソンとスペースコロニーを夢見たジェラード・K・オニールとのの邂逅、毒槍でクジラを突き刺すクジラ漁の話、インディアンの宗教的儀式、カヌーの作り方の詳細な描写、ジョージの仲間の数々など読んでいて実に発見が多い。オニールやフリーマンのようにあの時代というのは途方もない宇宙への夢をみながらにしてそれを実現することのできる技術的な下地を持った人間が多くいたのだなあ。

宇宙船とカヌー、まるで似ても似つかない二つのもの(どっちも船だが。)を通して、実に懐の深いノンフィクションになっている。

宇宙船とカヌー (ヤマケイ文庫)

宇宙船とカヌー (ヤマケイ文庫)