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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

小説のタクティクス (単行本) by 佐藤亜紀

創作物と受け手がそれを受容した時、その快楽はどこから、いかにして生まれるのかを解説してみせた佐藤亜紀『小説のストラテジー (ちくま文庫)』 - 基本読書の続編が本書『小説のタクティクス』になる。記述の運動によっていかにして読み手の応答を引き出し、どう組織化し形態を与え、より大きな快を与えることが出来るかが「戦略」だとするならば、タクティカル、戦術とはいったいなんなのか。この問いについては、なんらかの反応を引き出すことを小説の目的だとしたときに、状況に応じて入れ替える「中身」「様式」が本書で取り扱う「戦術」にあたる。

本書は小説のタクティクスといいながらもその中で取り上げられているのは多くが絵画や彫刻、あるいは映画といった小説以外の表現物だ。それでも同じように人間が創りあげ、他者にそこから何らかの反応を引き出そうとする目的においてはすべては共通しており(カメラを使うのか文章を使うのか石を使うのかに違いでしかない)、何十年といったあとにたどる末路も同じである。抽象的に表現における現代の様式を切り取ってみせる。

「中身」「様式」といってもさっぱりわからないだろうから、多少解説が必要だろう。

ある作品を何年も何十年も、時には何千年も経てから我々が受容するときに、知ることができるのはその作品の「形式」のみである。本書では彫像で最初にたとえられているが、これは実際に形があるのでわかりやすいので踏襲しよう。古代ローマの皇帝を表した二つの彫像がまずある。身長2メートル程度、非常に美形に造形されたアウグストゥスの彫像がひとつ。もうひとつは目がぎょろりとしお世辞にも美男子とはいえない、何か異様な形相をしている身長12メートルの巨像の頭部、コンスタンティヌス像である。

いってみればこの形の違いこそが「形式」の違いである。我々はこの二つの彫像形式を見た時に「内容」を想像する。たとえばコンスタンティヌス像は顔がブサイクだし目がぎょろりとしすぎているし下手くそだと思う人もいるだろう。一方等身大を遥かにこえる12メートルの巨像として存在し、ぎょろりとした目でこの世を超えた世界に向かって目を見開いている像をつくった理由に思いを馳せるかもしれない。元首とは何かへの認識の創意、神と人間と統治者の関係の認識の相違であろうと読む人もいる。

いろいろ想像は可能だが、我々の目の前にあるのは中身の何も詰まっていない空っぽの形式であって、受け取る側に可能なのはその形式を観察し、特徴を見て、そこからいろいろ推察してみせることができるのみ。中身はすでにないのだから、何かを流し込むしかない。作品とはそういうものだというのがまず本書の前提としてある。空っぽの器、形式によって存在するもの。それが作品であると。創りあげるときには当然そこには何かが入っているのだろうが、見るときにはそれは失われているのである。

解釈は元あったものをいかにして忠実に再現するかという問題ではない。空っぽの器を前にして、自分なりの解釈、内容を収めてやることだ。『これが、何故、形式が戦略に属するのか、の理由です。形式とは、鋳型の中を覗いたら窺えるであろう空洞であり、それを仕上げることが、作品を造る、ということなのです。*1彫像の例をあげたように、作品の表現形式というのは「創作側の世界認識の違い」によって産まれてくる。その差異を本書では「様式の相違」と呼び、芸術における戦術の問題をこの様式の問題と接続してみせる。

故にある意味でこれは、「現代を捉えた表現があるとすれば、それはどんなものか」を佐藤亜紀さんが捉えなおしていくお話だといえよう。現代評論というか、先のことばでいえば「現代作品の形式、空っぽの器の中に解釈を流し込んでいく」過程だ。

それは例えば現代においていえば、人間性の変質と世界の安定性への信頼の崩壊によって表現される。9.11が起こり、次の瞬間に何が起こっているのかわからない不安定な世界が前提になり、人間はかつて思い浮かべられたような「自律的に前進し挑戦し何事かを成し遂げていく人間」ではなくより「顔」の喪失した群衆としての存在として描かれていくようになっている。『宇宙戦争』において数々の主役をはってきたトム・クルーズを市民の中に埋没させてみせる。

『虐殺器官』や『ハーモニー』といった伊藤計劃作品においては、身体どころか意識さえも操作可能な「機械」的な人間像へと変化している。世界が不安定であり個人さえもあやふやになってきたというのならば、自分自身を獲得していくドラマは成立しがたい。これからの「新しい小説の様式」はこれまでの「近代小説」とはちがって、まったく別種のものになるだろうという話が続いてゆく。

上記のような流れで様々な作品があげられていくが、先にあげた作品群に下りの船の佐藤哲也といったSF小説やトゥモロー・ワールドといった映画作品、絵画へと幅広く及んでいて、特に絵画や彫像について、まったく知らないに等しいので解説がおもしろかった。一枚の絵画の、描写から読み取れる情報があまりに多く、現代の様式とはなんぞやといった切り口で絵画や映画、小説をを観測し、確かにそこには一貫したものがみえてくるところが面白いのだよね。

そこについてなるほど、と思う。それが佐藤亜紀さんが流し込んだ現代表現物、というかこれからの表現への解釈なのかと。たしかに『ミノタウロス』でも佐藤さんの表現は宇宙戦争に代表されるような「無根拠に、運不運の差で突発的に現れる暴力」が作品を支配していた。実際に自分でも実戦されていることがここには描かれている。ところが僕は正直「不安定な世界」とか言われてもまるで実感がない上に、万人に約束された固有の顔(キャラクター性というか。)がグロテスクな虚構の上にしか成立しないといわれてもよくわからないのだよなあ。

たとえば新しい小説の様式として考察されている下記のものについてもよくわからない。

5 「顔のドラマトゥルギー」は放棄される。世界がもはや安定した場所ではないことが暴かれた以上、自らの顔を獲得する人間、というドラマは成立しないからだ。「事故」からなり「運が悪かったから」に支配される世界において人間の顔とは、束の間出現し次の瞬間には消え去るものとなる。ただし、その一瞬の「顔」は美しい。

なんというか、現代って不安定な状態で安定しているというか、不安定だけど、だから何なの? と思うわけだよね。突然飛行機が突っ込んでくる世界ですよここは。人間がいて、飛行機があって、人間は飛行機を操縦できるんだからあたりまえじゃないですかという。人間がいて、爆弾があるんだからそりゃ腹にまいて突っ込む人もいるでしょうよ。だがだからといってそれが「自らの顔を獲得する人間、というドラマは成立しない」に僕の中ではまるでつながらない。

生まれ落ちた場所、人種、性別や階級によって「固有の顔」を獲得できる時代ではないことが自明になった世界であることは確かだ。しかし不安定な世界だったら不安定な世界なりに自らの顔を獲得していく人間、というドラマを書くだけなんじゃないかなあ。実際そういうことを書いているのがマルドゥック・スクランブル 完全版 - 基本読書というシリーズだし、いくらでも新しい状況に適応した小説の様式って産まれてきているのではないかと思う。『赤目姫の潮解』だってこうした文脈から捉えられる。

こんなに懇切丁寧に説明していただいて本当に申し訳ないのだが、故にあくまでも「佐藤亜紀解釈」として楽しむことはできてもそれが「現代の様式なのだ」とはどうしても思えないのであった。

小説のタクティクス (単行本)

小説のタクティクス (単行本)

小説のストラテジー (ちくま文庫)

小説のストラテジー (ちくま文庫)

*1:p24