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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

本の見切りについて

雑記

図書館の魔女 by 高田大介 - 基本読書 先日読んだ『図書館の魔女』という小説は本に関する語りがまた面白い小説で、1400ページを超える大作ながらも本の迷宮に迷い込んでいくような気分が味わえる傑作だ。本好きならオススメしたい。その中にこんな一節があった。「図書館の魔女」と呼ばれる図書館の主、声が発せないので手話でしか喋れない少女が、自身のところに仕えにやってきた少年キリヒトが放った問いへの応答である。

 「ではマツリカ様も全部の本を読んでいるわけではない?」
 ──当たり前だろう。
 「読まなくてもどういう本かは判るんですか」
 ──当たり前だろう。読まなくたって読む価値が有るか無いかはすぐ判らなけりゃ、こっちの一生がいくらあったって追っつかないだろう。
 いいかな、キリヒト、読むのは最後の手段なんだよ。読む前に読む価値が有るのか無いのか、そこを見極めるのが最初の手続きなんだ。誰に読まれずとも構わない書物、必要な誰かが読んでいればすむ書物、翻って少なくとも読んでいる誰かを知らねばならない書物、我とわが身で繙読せねばならない書物、場合によっては生涯をかけて読み込まねばならない書物、書物の価値にはその書物により、また読む人により自ずと軽重があるのだ。

たしかに。特に意識しなくても、駄本傑作とたくさんの本を通過していくうちに、自然と自分の中で本の選別が自然と行われているようになる。「本の見切り(読む価値があるか、ないかの判断)」を、読む前に行うようになるのだ。これは自分には読む価値がないな、と。実際には、そんな本ばかりである。自己啓発書とかね。ああいうのも、何十冊も読んだ上でクズな理由を自分なりに理解して読むのをやめている。ライトノベルも1000冊以上読んで「これは読まない」というラインを自分の中では明確に決めているので、あっという間にその判定はできる。

それを読んだ時間が無駄だったかというと、まあ無駄だったのかもしれないが、今では自分なりの理屈でもって手を出さないようになっているので、ある意味進歩はしているのだと思う。最強の護身は勝てない敵に近づかないことだみたいな感じか。無数に存在する本をすべて読む訳にはいかないのだから。本読みとしてのレベルがあがっていくたびに(別にファンファーレがなるわけではないが)、だんだん自分にとって近づくべきでない本がわかっていく。

見切りの能力をどうやってつければいいのか、といえば、やはり読むしか無いだろう。それは本の価値が人によって異なるからでもある。僕にとっては傑作である「図書館の魔女」だが、あれは本が好きな人間の為の本だと思う。なにしろ1400ページ超えと果てしなく長いし。それはつまり本好きにとっては価値がある本でも、その他の人々にとってはあまり価値がない本だということになるかもしれない(もちろん、これはたんなる適当な一例だ)。見切りとは価値の見切りであり、価値判断基準を他人から持ってくる訳にはいかない以上どうしても自分で読み、細かいすり合わせを行っていくほかない。

もっともこうした本の見切りは諸刃の剣でもある、というのが最近の実感である。どういうことか。最近、もう新刊を買う気があまり起きなくなってきて、古典かここ50年ぐらいで評価が固まっている本ばかり読んでしまう。今までの経験から、あきらかに、何十年も残り続けている本の方が面白く、自分にとって価値があると判断するようになってきたからだ。

もちろん最新の知見といったものは新刊からしか得られないが、最新の知見が必要としている状況でもないし、仕事で必要なものなどは新刊で取り込んでいる。新刊、日々新しく生産される本が過去の名著に勝るところがあるとすればそれは「現代をテーマにできること」と「過去を踏まえて論を積み上げられること、別の方向へいけること」だろう。それらを求めてやはり新刊もちょこちょこと読んだりはしている。

余談だが、だからといって「古典を最初から読め!」と人に進める気にはならない。というのも、古典を読んで楽しめる、そこから多くを引き出せるようになったのは僕の場合、現代の新刊を数多く読んでいったからなのだ。新刊、現代の書は先に書いたように過去の著作を踏まえて書かれている。自己啓発書なら7つの習慣が大本であるように(いや、これは適当だけど)、科学でも小説でも、いくらでも辿っていける。古典を読んで面白くてたまらなくなってきたのはつい最近のことで、自分の中で今まで読んできたいろんなことが、古典を読むことで根っこの部分から結合、統合されてくるのが愉しい。いきなり古典から読んでも理解できなかったんじゃないかなと思う。

話を戻して、新刊への注意は一応残しているけれど……というところから。新刊へ向ける注意がどんどん失せているのは確かだ。これ、「見切りの能力が向上した」といえる側面もあるが、一方で「単に新しいものを取り込む力がなくなったんじゃないの?」と自問したりする。実際どうなんだろうね。見切りの能力が向上したのか、はたまた「自分の趣味はこれ! あとは趣味に合わない!」と自分で勝手に思い込んでしまって「視野が狭くなっているのか」というのは、どうにも自分だとうまく判断がつかないところがある。

この世に存在する無数の本をすべて読めるわけがない以上、自分にとって何が必要な本なのか、といった判断は最重要である。「本を読む」といった時に一番高いコストは値段よりも時間だからだ。が、それらを「視野を狭めずに」摂取するにはどうすればいいのか、というのが最近の悩み。スゴ本のDainさんとかは、きっとそれらを「スゴ本オフ」という場で取っ払おうとしているのだろうと傍からみていると思う。結局、自分の視野の狭さを取っ払うためには他人の介在を入れるしかないのかな。

大学生の頃に有効だったのは「この棚の端から端まで読もう」という読み方だった。好みも糞もなく読むのである。ただそれは良い図書館と、それをやるだけの時間があってこそだ。「身銭を切らないと本の見切り能力はつかない」という人もいるが(dankogaiさんとか)、あんなもんは本を売ってる側の人間なんだからそういうのが当然で、実際には身銭を切ってリスクをとるせいで、外れをひかないためにより趣味が袋小路に入っていくものだ。

とかそんなことをつらつらと考えていた。

図書館の魔女(上)

図書館の魔女(上)

図書館の魔女(下)

図書館の魔女(下)