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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

フラニーとズーイー、訳文を比較してみる

フラニーとズーイ (新潮文庫 サ 5-2) by サリンジャー - 基本読書を久しぶりに読み直して、やはり傑作だと確信を得たが、読んでいて「どうもかつて読んだものと随分違うような気がするなあ」という違和感が常につきまとっていた。訳が違うのだからあたりまえだとはいえ、うどんとそばぐらいに違うような違和感があった。

気になって仕方がなかったので野崎訳をわざわざ買い直して比較してみて、せっかくなので記事にしようと思った。あまり訳文を比較する機会ってないと思うけれど、やってみるとそれぞれの個性が強く出てくるのでおもしろい。次に引用するのはクライマックス部分。ズーイー(ゾーイー)が、妹のフラニーに対して懇懇と語りかけていく場面だ。前者が村上訳で、後者が野崎訳なのでよろしく。

「もうひとつだけ。これでもうおしまいだ。嘘じゃないよ。ただね、君はうちに帰ってきたとき、観客たちの愚劣さについてくそみそにこき下ろしていた。ろくでもない『場違いな』笑い声が五列目の席から聞こえたって。うん、そうだよ、たしかにそのとおりだ。そういうのってほんとにめげちゃうよな。僕もそれに反論はしない。でもね、なおかつ、そいつは君の知ったことじゃないんだよ。君がとやかく言うべきことじゃないんだよ、フラニー。アーティストが関心を払わなくちゃならないのは、ただある種の完璧さを目指すことだ。そしてそれは他のだれでもない、自分自身にとっての完璧さなんだ。他人がどうこうなんて、そんなことを考える権限は君にはないんだ。本当にその通りなんだぜ。そんなことにいちいち頭をつかうべきじゃない。僕の言いたいことはわかるかな?」

以下野崎訳

「あともう一つ。それでおしまいだ。約束するよ。実はだね、きみ、うちに戻ってきたときに、観客の馬鹿さ加減をわあわあ言ってやっつけたろう。特等席から『幼稚な笑い』が聞こえてくるってさ。そりゃその通り。もっともなんだ──たしかに憂鬱なことだよ。そうじゃないとはぼくも言ってやしない。しかしだね、そいつはきみには関係ないことなんだな、本当言うと。きみには関係のないことなんだよ、フラニー。俳優の心掛けるのはただ一つ、ある完璧なものを──他人がそう見るのではなく、自分が完璧だと思うものを──狙うことなんだ。観客のことなんかについて考える権利はきみにはないんだよ、絶対に。とにかく、本当の意味では、ないんだ。分かるだろ、ぼくの言う意味?」

こうして比較して強く実感するのは、村上訳からくるとてつもない「村上春樹っぽさ」だ。たとえば「くそみそにこき下ろしていた」とか「そういうのってほんとにめげちゃうよな」なんてのは、村上春樹が自身のエッセイで書いていてもおかしくないような調子の軽さをはらんでいる。「ある種の」の使い方なんかもそうだ。ある種の──というとき、僕はいつも村上春樹の独特な比喩が始まる前兆のように思えて、村上春樹にまるで関係がない文章でもちょっとした緊張状態に陥ってしまうのだが……、それは余談だった。

権限と権利、野崎訳で多用される「──」など、他にもいろいろ細かいところで語句の選択の違いが非常に面白いが、全体的にいって訳の違いからくる印象を考えると、村上春樹役のズーイーは野崎訳に比べて幾分か軟派な人格を備えているように思えてくる。野崎訳は幾分硬いし、文の切れ目が特徴的なところがある。「とにかく、本当の意味では、ないんだ。」という文の区切り方を最初に野崎訳で読んだ時、その区切り方になんだかよくわからない衝撃を受けたものだった。

さて、たしかに違いがあるが、訳者ごとに出てくる当たり前の違いのようにも思う。翻訳教室という本で、たしか柴田元幸さんの訳と村上春樹さんの訳したポール・オースターの短編が載っていたことがあったが、それも随分と異なるので驚いたものだ。今回の例が特別というわけではなく、訳者が違えばこれぐらい違うのは当たり前だろう、という範囲におさまっているような気はする。

そういえば村上春樹はたしかこの作品にたいして「関西弁で訳したい」というようなことを言っていたと思うが、ソレほどの変更は加えなかったようだ。⇒白水社 : 村上春樹・柴田元幸『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を語る (5/5)

村上 『ナインストーリーズ』はできたらやってみたいなという気持ちはあります。実際にやるかどうかはわからないですが。それから『フラニーとゾーイ』の関西語訳をやってみたいというのは、前々からちらちらと考えてます(笑)。ゾーイの語り口を関西弁でやる(笑)。売れるとは思えないけど。

しかし一体全体関西弁で訳したい英文とはどんなものなのだろうか。村上春樹がこの作品を「なんだぜ」とか「めげちゃうよな」とより軽妙さ、親しみやすさを備えたズーイーにした理由も知りたい。たまたま、というわけでもないのだが手元に原書の『Franny and Zooey』があるのでこちらも参照してみたい。

”One other thing. And that's all. I promise you. But the thing is , you raved and you bitched when you came home about the stupidity of audience. The goddam 'unskilled laughter' coming from the fifth row. And that's right , that's right─God knows it's depressing, I'm not saying it isn't. But that's none of your business, really. That's none of your bisiness, Franny. An artist's only concern is to shoot for some kind of perfection , and on his own terms , not anyone things, I swear to you. Not in any real sense, anyway. You know what I mean?”

こうして読むと野崎訳は随分と原文に忠実だなあと思う。shoot のところなど原文だと特に印象的な部分だが、野崎訳ではここをそのまま「狙うことなんだ」と意味どおりに使っている一方村上訳では「目指すこと」に置き換えられている。狙う、というのは日本語だとちょっとだけ違和感があるな。rightの訳語が権限と権利でわかれているのも興味深い。

'unskilled laughter'という語についても分かれていて、村上訳では「場違いな笑い声」野崎訳では『幼稚な笑い』になっている。幼稚な、という言葉の使い方は妙にそぐわないような違和感があるけれど、unskilledには合っているのかな。そういうところを一箇所一箇所みていくと野崎訳の、原文への忠実さがわかる。熟練の技もまた感じさせるが、遊びの部分は村上春樹訳の方が上だな。

と、こんなかんじで三冊を比較しながら読んでいるので異常に時間がかかる。気になる所、個々の判断のばらつきが非常に面白いが、そもそも原文からして素敵なリズムを持った文章なので心地良い。関西弁で訳したいというのは未だによくわからないが……。ネジ曲がって自分自身随分と生きづらそうなズーイーがそれでもそのネジ曲がったままに妹にたいして、真摯に誠実に話をしていくナイーブさ。

フラニーの自意識が肥大化して、周囲の要請に自分がどう対応していっていいのかわからなくなり右往左往してどうしようもなくなってしまうような鬱屈した感じなどは、関西弁とはどうにもあまり合わないような気がするなあ。とかいろいろ考えるのが愉しい。

日本語に翻訳されるおかげで我々は何パターンものサリンジャーが読めて大変幸福であると思う。生まれが米国で、英語がたとえ最初から読めたとしても、サリンジャーの文章を1パターンしか読めないのだとしたら、それは随分と残念なことだ。

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

フラニーとゾーイー (新潮文庫)

Franny and Zooey

Franny and Zooey