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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

侍という不思議な生き物『フォグ・ハイダ』 by 森博嗣

侍というのは不思議な生き物だとこの森博嗣さんによるヴォイド・シェイパシリーズを読んでいると思う。刀を持っている。刀の機能とは置物、芸術的価値を別にすれば、人を斬ることにある。人を斬る必要がある状況とは相手が自身にとって道を阻害するものである場合、危害を加えられそうな場合、それにより自分が利益を得られる場合、などなどが考えられる。

刀を日常的に持つ人間、立場である以上、何のために刀を持ち、何のために斬るのかということを自問せずにはいられないはずだ。斬らなくてもよい時代になったにも関わらず刀を持たねばならなかった武士たちはたぶんずいぶんと悩んだだろう。人を斬る道具を常に持ちながらそれを容易には使えないという立場に置かれているのだから、矛盾した不思議な存在にみえる。

この『フォグ・ハイダ』は森博嗣さんによる剣豪小説だ。これまでヴォイド・シェイパ - 基本読書 ブラッド・スクーパ - The Blood Scooper - 基本読書 スカル・ブレーカ - The Skull Breaker - 基本読書 と続いてきたシリーズの4作目ですがこれから読んでもOK。個人的なオススメは本作と『ブラッド・スクーパ』になる。裏設定の開示が控えめで物語の動きがよくわかるのがこの二作だからだ。

ストーリーの把握としては、森の中で剣の達人と二人、子供の時から修行してきた「ゼン」が、師の死に伴い下界に降りてきて、その剣の才能を発揮し、人間社会にひたり、剣の道や人間とは何か、また自分自身の出自に向き合っていく小説になる。もちろん斬り合いも随所で発生する。一言でいえばゼンは、考える侍だ。実に多くのことを考え続けている。

たとえば襲い掛かってくる盗賊に出くわしたとき本当に斬る必要があるのかと。もし斬る能力がなければ逃げることを考えるだろう。あるいはその方が生存率では高いかもしれない。しかしなまじっか斬る能力があるばかりに、無用に命を散らす選択肢をとってしまうことだってある。心得が何もなければ、逃げていて誰も死なずに済んだかもしれない。「金槌を持つ人にはすべてのものがクギに見える」、ように、能力があるのも、考えようだ。

しかし、斬り合いの中にも長年生き残ってきた人間の中には技術が蓄積される。一流の使い手の動きには、スポーツ選手の洗練された動きを見た時のような驚きが残されることだろう。しかしその驚き、洗練された動きとは斬り合い、命のかけあいの中にしか存在しないものであって、それをまた見たいと思うのであれば、死にたくなかったとしても自分から挑まなくてはいけないかもしれない。

人は生きるために斬るが、時に命を捨てる愚を犯してでも斬り合いに赴いていくことがあるというこの不思議。斬り合い、生死のやり取りの中にしか生まれ得ない生の喜びがあるのだということ。命よりも大事なことがある場合、人は命を捨てる選択肢が平気でとれるようになる。本作ではそれを示してくれる人がいる。命より大事なものだってあるのだ。

ゼンもまた「自分の身を守り活路を切り開くための剣の道が、かえって自分の命を危険に晒すことになる」という一見矛盾した自己のあり方に直面することになる。立ち会ったら死ぬかもしれない。しかし立ち会わねばあの煌めき、あの凄さをもう一度体感することはできないのだと。その矛盾した心の動きは、とても綺麗だ。

何のために戦うのか。剣の道を究めるとはどこへ向かうことなのか。その探求の道をゼンは歩んでいる。剣がある。それは人を殺す道具である。それならば人を殺さねばならないのか。別の道があるのか。どういう時が人を殺さねばならない時でどういう時は殺さずとも良いのか。空っぽの器だったゼンは着実にその中身を満たしていく。

この学習の過程が実に面白い。学習といってもそれはこうした問いかけの連続だけではなく、物をしっかりと身体に巻きつけている時に突然襲われたら身体が重くなって不利になるので荷物は即座に下せるように持っておこう、といった現実的な、実践として有効な気づきの数々でもある。ああ、ゼンは一戦一戦ごとに、生き延びるごとに、生き残る方向へ向けて最適化の道をたどっているのだなと思うのである。

本書の引用本(森博嗣さんの小説関連の著作では大抵章ごとに一冊の本から引用がとられる)は「五輪書」by宮本武蔵 だが、宮本武蔵もまた五輪書を読む限りではそうした実践哲学の人間であった。五輪書に書かれているのは、自身が何度も何度も生き延びてきたその人生において、一つ一つ実践でいかにして勝つか、それを理解していく過程と重なるものがある。武道について語っているはずなのに仏教や儒教の言葉でたとえていたりして抽象的すぎてよくわからない本が殆どだった当時、宮本武蔵のリアリスティックな考え方は異常だった。

五輪書には「こうだからこうするんだ」ということが直接的に書いてある。その目的は一点、「いかにして勝つか」である。世間体だとか、他人への配慮などをほどんど考えてこなかったゼンの思考は思いがけず宮本武蔵的な実践哲学の領域を追いかけている。そして五輪書の中ではこうも言っている。『又、世の間に、兵法の道を習ても、實のとき、役にハ立まじきとおもふ心あるべし。其儀におゐては、何時にても役に立様に稽古し、万事に至り、役に立様におしゆる事、是兵法の実の道也。』

簡単に現代語に直すならば兵法など習ったとしても実践では役に立つはずがないという心もある。が、どんな時にでも役に立つように稽古し、すべてのことについて役に立つように考えること、それが兵法の実の道なのである。刀を持つこと、いかにして勝つかを考えることが「役に立つか立たないか」なんて考えてねーでどんな時にでも役に立つようにすりゃあいいだろうがというお言葉である。これなどそのまま「剣の道は人を斬ることしかないのか」にたいする一つの返答でもあろう。兵法を学ぶにしても、それを戦に役立てるばかりでなく、別の場所へ役立てればよい。

斬り合いに至り、斬り合い時の思考を文章化する試み

実践的な動作のほかに、なぜ斬るのか、どんな時に斬るのか、何かほかに活かせる道がないのかとゼンが学んでいくこうした過程が面白いのは、なぜなんだろう。ゼロの状態から一個一個思考を積み重ねていってくれるので、まるで自分自身がこの時代に入り込んで、ゼンが強くなってゆく過程を、一から体験しているような一体感にとらわれるのかもしれない。

そして何よりも素晴らしいと思うのはこれが剣の達人同士が見合った時の言葉にできないレベルの力量の差とか、技能の差、身体の動かし方といった領域を書かんと挑戦しているところだと思う。本作ではそれは「遅らせる」というひどくシンプルな言葉で表現されている。一瞬、ほんの一瞬だけ動作を遅らせる。それが生死の堺をわけてしまう。バガボンド宮本武蔵を描いた井上雄彦は絵でもって達人の佇まいというものを表現してみせたが、森博嗣はそれを文章で試みている。

一瞬で立会、重心を考え相手の出方を考えああきたらこうしよう今行くべきか少し贈らせるべきかを考え、その一瞬の中に「綺麗だ」と思う。そうした感情の一瞬のうつりかわり、生死をかけた戦いの中に入り込んでくる斬り合いに関係のない思考。そうした一つ一つの描写がとても愛おしい作品なのだ。

まだまだ先へ進むゼン

本シリーズの引用はなぜか「英語」で書かれた後日本語が載っている。これはとても不思議だが、「外国から見た日本」がコンセプトのひとつにあるからだ。実際我々は日本人であるが侍的価値観とは断絶してしまっており、ゼンのように空っぽの人間が考えることの近代科学的な事実をベースに積み上げていく思考法の方がよほど近いものがある。宮本武蔵は道を極めたとまで五輪書で書いていたが、果たしてどんな境地にまで達したらそんなきもちになるのだろう。願わくばゼンの旅がまだまだ終わらないことを、と読みながら祈らずにはいられなかった。

ここから若干ネタバレ。いい具合にゼンの周りに女性が増えていくのでたいへんほくほくしながら読んでました。ゼンはその性格から、相手の容姿に関しての話をしないけれども、周囲の反応からまわりに増えてきた女性たちはみな美人揃いに違いないと判断できる(願望こみ)。なぜこんなちゃんばらものでハーレムを築きあげようとしているんだろうと疑問に思わなくもないがそれはそれとして……。

斬り合いの緩急について

あと今巻は斬り合いも激しかった。世界観の開示も終わり、ゴールもある程度は示され、じっくりとこれまでの設定をふまえてがっちりと構築されたシンプルなお話。山から降りてきたゼンには守るものがなにもなかったけれども、人里に降りて社会の中に組み込まれていくうちに守るものが出来てしまい、自分の行動の幅が大きく減じられ戦いに赴く羽目になる(もちろん道の探求の側面もあれど)という合理的な展開も秀逸。

何より素晴らしいのはその戦闘描写だ。ゼンはよく考える。だから斬り合いになる前となった後は、あのときはああすればいいこうきたらこう返せばいいと多くのことを考える。文字の量も多くページに敷き詰められている。それがいざ一転斬り合いの場になった瞬間思考の奔流はとまり、身体の反射のみで動くようになりその分描写は簡素になり一行一行ずつに行動と一瞬の判断のみが記されていく。緩急が完璧に合理的な理由で生み出されており、素晴らしいと思った。

いや、ほんとうに素晴らしいシリーズなんですよ。オススメですよ、オススメ。

フォグ・ハイダ - The Fog Hider

フォグ・ハイダ - The Fog Hider

五輪書 (岩波文庫)

五輪書 (岩波文庫)