基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

S-Fマガジン 2014年 07月号 創刊700号記念特大号について

 SFマガジン700号である。分厚い……高い。584P! 2900円! 記念だからといって分厚くすればいいというものではない。

 が、内容が詰まっているのはいいことだ。素晴らしくいいことだ。いやあそして肝心の内容は凄いぜ。1960年台前半からのSFの歴史がぎゅっと濃縮されているといってもいい。たかだかSF、されどSF。そこに何十年何百年もの時間が流れているのであれば、やっぱりそこには流れているだけの何かがあって、その時代その時代の人々はみな一生懸命にSFを書いて、SFを読んでいたわけで、その一所懸命な道のりが濃縮されているのだから、凄くないはずがない。

 なにしろ神林長平が新人だった頃の「神林長平は「これから」の作家である」という評なんか、読んでいるだけでタイムスリップした気分になるものなあ。ダン・シモンズハイペリオンが初めて訳された時の反応とか、後代において評価が固まっている作家や作品が出てきた時の当時の反応が面白くて仕方がない。僕が知った時から神林先生は大作家であり、膚の下や雪風を世に送り出した怪物であり、「これから」の作家といわれている神林長平と頭のなかにいる神林長平のイメージがぐらぐらと溶け合わさっていく感じがする。過去現在が交錯し、分量も多く、読むのに疲れてしまうので、一気に読もうなどと考えるのはやめたほうがいい。

 下記に、気になったところをピックアップしてちょっとだけ書いていく。言及したくなる記事が多すぎるのでほんと、ちょっとだけだが。初手は、現代ではなんだかきな臭いことになっているSF作家クラブ結成時に書かれた、設立秘話など。ちなみに僕は別に現代できな臭いことになっていることについてはかなりどうでもいいと思っている。別に法律に違反しているわけではなく、自分たちの会であり、自分たちで創りあげたルールであり、それを行使することに何か問題などあろうはずもない。まあ、子供の喧嘩みたいだなあ、と思うけど。

 SF作家クラブ結成の主唱者の一人である福島さんは、SF作家クラブを結成するための打ち合わせ会が開かれるいきさつについて下記のように語っている。

「新しいSFクラブを作らなければならないと考えたのには、いろいろ理由があるわけですがSF、はいささかアブノーマルな文学であるという意見が世の中に非常に多いわけなんですね。そのなかで我々がSFをやっていますと、簡単なことでも、すぐ誤解を招いてしまうようなことも多い。たとえば誰か一人が、慎重を欠くような言動を行ったりしますと、それがSF全体の意見であるかのように思われがちです。そういう誤解を与えないためにも、」

 あんまり長々と引用したくないので途中で切った。誤解を訂正したり、あるいは思いもよらぬジャンル全体への不利益にたいして、ジャンルを守るため、「公式的な意味合いを持つ組織として」結成された理由に焦点を当てた意見だ。今でもSFファンとSF作家の距離は、他のジャンルと比べて例外的に近いと思うが、当時はもっと近かった。その距離がだんだんと離れ始めたのも当時である。つまり職人としてのSF作家を区別するものであり、星新一さんの意見では「コミュニケーションが現代文明に最も必要であるごとく、作家もそれを必要とする。」からこそのSF作家クラブである。

 まあ、様々な人が様々に、SF作家クラブに意味を見出していた、ということだ。別に、だからなんだというわけでもない。ただあらゆる組織には、どんなに小さな会社の小さな組織であっても設立理由というものがあるのであり、それらが結成されてから何十年もたってから当時の設立理念みたいなものを読むのは「理念の棚卸し」みたいなもんで面白いものだなと思うのだった。

 当時の理念は当時の理念であり、現代にをそのまま踏襲する必要もなく、バージョンアップさせていかなければならないものだ。僕はSF作家クラブがどこに向かおうが別に知ったこっちゃないのだが、それでもみなが面白く楽しく存続していってくれればなと願うのだった。

神林長平インタビュー

 1982年9月の物。デビュー経緯やデビューした頃の心情などに触れていて興味深い。とにかく人と会うのが嫌で、人と会わないでできる仕事、目覚まし時計のいらない仕事を真面目に考えたといっているのをみて非情なシンパシーを感じる笑 なぜなら僕も今月から毎日人と会うのが嫌で嫌で仕方なくなり、目覚まし時計に支配される人生なんてまっぴらゴメンだ! と人と会わないで出来る仕事にうつろうと思って、辞めたばっかりだから。読んでいてにやけてきてしまうのは、先生は当時から何にも変わってねえなあというところで。勿論能力はこのあとより洗練されていくんだけども、その目標とするところがなにも変わっていない。

 ストーリーを進めるために、”Aは五時に家を出た”というような文章を書くのも苦痛ですしね。やっぱり言葉に自由に出てきてもらいたいし、それを待ってて書くわけなんですから。もちろん、自分のアイデア通りに話が進んでいってもらわなくちゃ困るんだけど、細部でね。前の言葉に次の言葉が触発されるという言葉の増殖性を殺さないように書いている。

 そう、神林先生の物語は自然なんだよ。自然っていうのはようは作者の作為を感じないということだ。「ああ、これは最初に仮定された状況からなるべくしてなったことなんだな」っていうどうしようもなさ、そこに至るしかなかった完全性みたいなものが神林作品にはあるのだ。ちなみに神林長平インタビューはもうひとつ載っているが、そっちはむかし記事にしたことがあるのでここでは触れない。

オールタイム・ベストSF

 国内編一位がハーモニーだったことにはがっかりしたが、まあそうなるだろう。天冥の標がまだ継続中にもかかわらず6位に入っているのが凄い。完結したら1位間違いないのではないか。一巻が出た時は周りで読んでいる人をほとんど見なかったのに、今は新刊が出る度に反応が溢れかえっているものなあ。作品の価値に評価が後からくっついてきたというか。何気なくBEATLESSが18位に入っているのもグッド。しかし長谷敏司さんはもうこのままSFの人になってしまうんだろうか。円環少女みたいに、ラノベでまた長編が読みたい気持ちもある。神林作品も順当にいくつも入っているが、『あなたの魂に安らぎあれ』と『膚の下』で票数がわれていてぐぬぬぬ。火星三部作シリーズだろー!

 海外編は順位が下がったものが面白いかな。幼年期の終わり、火星年代記など。幼年期の終わりは出た当時はあまりに衝撃的だったが、その後衝撃を受け継いだまま現代的にバージョンアップした傑作がいくつも出てきて、そういうものを経由してから幼年期の終わりを読むと印象が薄れちゃうんだよなあ。火星年代記に関しては僕は傑作だと思うが、未だにこの路線を引き継いだような作風って読んだこと無いな。まあ似たような方向性という意味であればいるけど。でもレイ・ブラッドベリ感が現代から失われつつあるような気がする。新星という意味であればミエヴィルになるのだろうが、なんか入れ替わりという意味ではぱっとしないね。面白い海外SFもいっぱいあるんだけどなあ。

カゲプロについて

 飯田一史さんによる連載で、特に記念号に関係が有るわけではないがカゲプロについて書いていてこれが面白かった。僕自身はアニメからみはじめて、意味がわからないので観るのをやめて原作小説を読んだら割合楽しめた人間だ。その面白さのひとつに、音楽と漫画、小説とアニメでそれぞれ異なった描写がされていくパズル的な要素がある。と、それ自体は小説を読めばすぐにわかることだが、カゲプロの場合はそれが極端だよね、と。音楽、コミック、アニメとメディア横断的に情報が交錯して、だんだんと物語の抜け落ちていた情報が補われていくので、メディアミックスであることの意味を充分に活用しているといえる。

 こういう物語のピースをばらばらにしていき、体験フローがある程度定められているが故に「個別の単体作品としてみるとよくわからん」し、実は一つ一つのクォリティは凡庸だ、という意見が厳しくて面白かった。『じんはミュージシャンとしても小説家としてもアニメの脚本としても、それぞれは「センスは良いけれどもそこそこのクォリティ」のものしか作っていない。ですが、それをひとつのプロジェクトとして連動させるプロデューサーとしての才能は、抜きんでています。』まあ確かに。アニメは意味がわからないし小説はうまくないしね……。音楽は聞いたことがない。

 僕はもうアニメはみていないのだけど、メディアミックスをやるんだったらこれぐらいはやってほしいよなあという好例としてみている。それぞれがそれぞれに別の物語を語り、それぞれで相乗効果を生み出している。話、中心となる人間も時系列もばらばらに展開しているが為に、アニメで掘り下げられる人物、小説で掘り下げられる人物と、焦点を切り替えていけるのもいい。物語の設定上誰しもがトラウマを持っているので、「語りやすい」という設定のうまさもある。

 作品それ自体が面白いというよりかは、メディアミックスや作品設定を含めた仕掛けがよく考えられていて面白いんだよなあ。

 Amazonのページを一応下に貼っておきますけど、在庫がないみたいですね。増刷とかされるのかなこれ……。