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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

黄金時代 by ミハルアイヴァス

ファンタジー SF

これはまたえらいことをやってのけた小説だなあというのが一読しての第一印象。不定形で流れ続ける事象、その運動それ自体を書き留めたかのような話で──といきなり話をはじめても意味がわからないだろうから、多少の前提情報を共有しておこう。

本書『黄金時代』はある語り手が旅のあいだに三年ほど滞在した大西洋の不可思議な島についての文章になる。言ってみれば旅行記のようなものだ。旅をした島が、我々の想定している常識と大きくかけ離れていることを除けば、という注釈が必要になるが。夢の世界のような、というほど無秩序ではなく、かといって不思議の国のアリスのような想像力に支えられているわけでもない。そこには明確な方向性が与えられた世界観と方向性、方針があってそれが最初に書いたように「不定形で流れ続ける事象、その動きそれ自体を書き留めたかのような」にかかってくる。

名前について

たとえばこの島には名前がない。住民たちは固定した名前を嫌い、自分の名前もしばしば変え、生涯のあいだに何十もの名前を持つことになるという。昨日まではボブだった男が次の日俺はヒロシだと言い出したら困るだろうと思うのだが、この島ではそれが当たり前のようだ。ただボブが突然ヒロシになるような無秩序な変わり方ではなく、たとえばボブと発音しようとしてボオと呼んでしまったらボオを自分の名前としてしまうような、「対話の中で変質していくもの」として名前が存在しているのだった。

制度について

島には王の邸宅があり、政治体制も存在はしているようなのだがこれもまたうつろい続けているので記述は容易ではない。何しろ名前が変わるのだから選挙も簡単ではないし(どうやって投票したらいいんだ)、そもそもこの島に存在している力学は「固定化する力の排除」とでもいうべきものであり、それは名前だけでなく統治者制度にも適用されている。選挙、議会、国民投票、世間話、ゴシップの中間に位置するような制度によって統治者は決定される。が、これも明確な制度として存在しているわけではないから、延々と続く会話プロセスの中で、力の均衡が取れる状態が一時的に成約したその瞬間に誰が王になるのか決まる。

王の権力はある意味では絶対的だったが、別の意味ではほとんど無力でもあった。みずからが下す決定について、王は誰かと相談するkとなどなく、決定はみずからが選ばれたような、音のしない郵便と同じ網目を通して広がっていった。もちろん、この網目のなかで生まれたものが王による本来の命令とはまったく別の物になることもあった。王宮を訪問したり、あるいは自宅で決定を伝え聞いた友人たちや親族を介して、統治者の決定は流布していく。島民は単語のulという短い語で否定を表現するが、この小詞は島の喧騒にまぎれて聞き過ごしてしまったり、逆に発音されていない箇所で耳にすることもあったので、決定が正反対のものになることも頻繁にあった。そのため、会話を経るうちに意味が何度も変わり、その回数が偶数であれば、声明や指令は王自身が発した言葉と同じになった。

いざ王が決まってもその指令がごっちゃんごっちゃんになって下の人間に届くのかわからないので王は存在しているが、特段重要視されていないようだ。まあ、そりゃそうだよなという他ない。ただそれはこの島では制度やルールが一切尊重されない・順守されないということではない。たとえ王の言ったことと真逆のことが発令されても、人々はそれをきちんと守る。しかしそうしたルールを「変わらない」ことを保証するものは何もない。むしろ常に動き、変化し、境界を曖昧にし続けていくことこそがこの島では絶対的に重要な要素なのだということが、島の奇妙な風習を読むと次第に納得されていく。それは島民たちが信仰している宗教や、変わり続けることをルールとしているわけではなく、「ただ、そうである」だけなのである。

我々の世界において物事は「定義付けられる」ことを必要とする。名前は殆どの場合変わらない。我々の言葉も、ゆるやかに変わっていくが、基本的には変わらない。制度も一度策定されれば、変える為にはまた別の制度によって変える必要がある。当たり前だ、突然制度が変わり、名前が変わり、扱う言葉が変わっていったら、社会生活なんて営むことができない、と普通は思う。そうした常識をこの島は次々と打ち砕いていく。名前は変わり、制度は話の文脈の中で変転してゆき、言葉のやりとりは文章のやりとりではなく曖昧模糊とした周囲の環境音まで含めたノイズまで含めた総体として行われる。

本書は前半部まではこうした「常に移り変わり続けてゆく島の特異な文化博覧会」的に構築されていくが、後半からはそのスタイルを崩す。ひとまずこの前半部だけで話をまとめておくと、幻惑的な文体と共にすべてが移り変わりゆく、連続としての文化の旅として楽しむことが出来る。著者が冒頭で述べているように、『この探検の目的は、イメージを征服することでも、屈折と見なされる形態を救済することでも、その地に暮らす人びとの生活に規律や意味を発見することでもない。動機は、巡礼そのものにある。何らかの目的がこの旅にあるとしたら、それは旅の無益さにあるはず。』、ここに描かれていくイメージの数々は現実への批判・風刺などの意図は込められておらず、ただ魅力的な「ここではない・どこか」をファンタジーでも不思議の世界でもなく作り上げたもののように感じられる。

本について

この島の不可思議な有り様をめぐっていくだけでも充分に楽しいのであるが、後半のスタイルはまた別の面白さがある。具体的に書けば、「本」の話になっていく。当然ながらこの島の本は、我々の良く知るものではありえず、常にその姿を変えながら発展・変形していく「終わらない本」だ。島にはこの一冊の本しか存在せず、特に保有期間が決められているわけでもないこの本を、人から人へ受け渡しながら、受け持った人間が本に付け加え・削除し・編集を加えてまた次の人間に回す。常に動き続けている本だ。

この本がどのような存在なのかの描写と共に、いくつかの物語を紹介するような形で後半部は進行していく。しかし考えてみて欲しいのだが、常にその内容が改変されていく本を記述することなど、果たしてできるのだろうか? もちろんこの旅行記の著者が読んだ、その当時の記憶を元に再構成することはできる。だが実際にはそれは既に形を変えて、跡形もないだろう。それならばいったいどの時点の「本」を描写することで、その本について語ったことになるのだろう? この不可能性、それはこの島の記述それ自体にもいえることだと、ことここに至ってようやく気がつくことになる(個人差があります)。

語りについて

そもそもこの『黄金時代』は、一人の人間の旅行記として紡がれていくわけだが、特徴的な点として常に読者に語りかけるようなスタイルをとっている。この話は面白いと思ってくれていないのもわかっているとか、数行読んだだけで、君が段落を読み飛ばしたんじゃないかって疑っている、などなど常にこちらに対して心情を慮る記述が連続する。それだけではなく、「でも、それを恥ずかしく思う必要はないよ、私だってこの文学ジャンルに慣れるには相当長い時間を要したのだから」とか「出来事のなかでもっとも重要なことは脱線のなかに潜んでいるということ」など思わせぶりなことを語りかけてくるのだ。

で、これはけっこうウザい。何しろしょっちゅう話しかけてくるから「てめえ、うるせえぞ!」と思うぐらいだ。「君が段落を読み飛ばしたんじゃないかって疑っている」と書かれているところなどは確かに描写的にうんざりしてくる。確かに島の文化概観などには本筋がないからどこを読み飛ばしても構わなくなっている。また物語内物語に描写が突入すると、読む方としては「これにいったい何があるんだよ」と思いながら読んでいるわけだが、特に関係がない、それが脱線であり徹頭徹尾余談であることは何度も語り手から説明が入るので、読むのに気力が入らないわけだ。だいたい、既に変化してその姿を失っているであろう物語を延々と読ませられて、それでどうしろっていうのだ?

だが、常に変化を続ける物語を語るというそもそもの不可能性は、つまるところ我々自身が物語を創ったとしても何の問題もないことを示している。だって語られている物語は、現在進行形でその姿を変え続けているんだから、どのような形でもありえる。結末だって、導入だって自分で考えて挿入し、変質させてよいのである。この物語内物語を語っていく途中、あるポイントにおいて、語りかけ、共感し、心配し、時には叱咤してくれた善き先導者としての語り手が突如横に並び、並走者へと立ち位置を変える。その時我々は単に「読むことで物語を前に駆動する読者」ではなく、「物語それ自体を語り手と共に作り上げていく創造者」に変貌しているのだ。

全58章の「変化し続ける物語」。何事かを築き上げていくのが物語であり、現実の秩序ともいえるだろう。だが『黄金時代』は移り変わり続ける不断の運動の中に、変化の秩序を築き上げてみせた。その必然的な帰結として、我々読者もこの『黄金時代』の中に取り込まれ、変化に関与するのである。いやあ、たまげたね。

黄金時代

黄金時代