基本読書

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薫香のカナピウム by 上田早夕里

上田早夕里さんによる短編魚舟・獣舟 - 基本読書を読んだ時に、そのどこでも読んだことがないし、観たことがない異質さと、その異質さがまったく違和感なく自分の中に受け入れられる世界観に驚いたものだった。しかしそうした「異質な存在感」を放っている世界も、一度その中に入り込んで手触りを楽しみ、よく馴染むようになってくると「お馴染みの世界」になってしまう。それはそれで一つのフィクションの達成だが──「世界の手触りを楽しみ、入り込み、親しんでいく過程」を味わうことはできなくなる。これはまあ、当たり前の話。

で、しばらくそういった感覚を物語から受けることもなくなっていたのだけど……『薫香のカナピウム』は久しぶりにあの時の感覚を味あわせてもらった。『魚舟・獣舟』とは違った世界観。あちらは一面に広がる海に生きる人々の世界だったが、こちらは森の中で多様な生物と生活を営む人々の世界だ。匂いも成り立ちも、構成素材も何もかも違う世界観で、それでもやっぱり他のどこにも見当たらない異質さと、それをずっしりと読者の中に落ち着かせる重さを持っている。

「まったく別の世界を、読者の中で魅力的に成立させる」ことがとりわけファンタジー作品には求められる。もちろんファンタジーの中には現実の国家やシステム、宗教をほとんどコピーしたかのように登場させて構築する作品もあるが、それとは別の風習から文化、生物・歴史までをまるごと構築してみせる作家もいる。そうした作家はみなそれぞれの手法でもってその世界を魅力的に成立させてくれる。

本作は愛琉と呼ばれる少女が地球とは思えないような不可思議な生態系が成立している熱帯雨林地帯で、自分自身の運命を決める「選択」を繰り返しながらこの世界の謎に行きあっていく話だ。彼女たちの一族は一定の年齢に達すると巡りの者と呼ばれる様々な場所を巡り仮面をつけている者達と巡りを合わせる、夫婦の契約を結ぶ習慣があるようだ。愛琉の選択は既にその時点から始まっている。誰と「巡り」を「合わせる」のか。巡りの者がなぜ森を巡っているのか、そもそもなぜ少女は巡りの者と関係を結び必要があるのか。世界には巨人と呼ばれる人々や、雪豹と呼ばれる動物、さまざまな一族と争いを防ぐための奇妙な風習など我々の現実とはまったく異なる背景がある。

ファンタジーはこうした世界観をごろっと出すだけではなく、魅力的に演出しなければ成立しえないわけだが──本作『薫香のカナピウム』は「香」の字が入っていることからもわかる通り、「香り」の描写がとても印象的な作品でもある。たとえば冒頭にはこんな印象的な文章がある。『花の匂いは<巨人の櫓>がある方角を指し示していた。しばらく嗅ぎ続けていると、香路がはっきりと見えてきた。嗅覚が察知する香りの道筋は、愛琉の頭の中で、くっきりと一本の道を描き出す。』

世界をきっちりと存在感を持って際だたせるのは、こうした匂いや色合いなどの感覚的な情報なのだというのが僕がファンタジーをいくつも読んできて得た実感である。香路などという言葉は当然日本語にはないが、しかしきっちりとした匂いが連なっているのであればそれが路になるというのは感覚的に理解できる。緑が充満し、道路などが整備されているはずもないファンタジックな世界。しかし香路という設定と豊満な匂いの描写が、道なき道を跳びまわりながら移動し、迷わずに移動している彼女たちの生活を想起させ、急速に頭のなかにこの世界を成立させていく。

愛琉が自分自身の「選択」を重ね、自分の道を選び取っていくのが本作の主要骨子ではあるものの、それと同時に「この世界とはいったいどのような成立過程を持っているのか」という過去をたどり直す作品でもある。巨人の櫓とは何なのか、性別の存在しない一族がいるのはなぜか、そもそも彼女たちの身体は森を跳びまわるのに最適な身体サイズにデザインされているように描写されているが、なぜそんなことが起こっているのか……。二章の終わりまでいったところでこの作品が「何でありえるのか」が明確に意識され、最後まで辿り着く頃にはこの世界はいったいなんだったのかがまざまざと理解できるようになっている。そうした世界の背景を暴いていく過程そのもの、幻想的な森林世界という表向きのイメージと、裏側に流れているまったく別個のイメージと、ひとつの世界が複数の見え方をするのも愉しいものだ。

で、これって2011年11月から2014年8月という、割合長期間にわたって書き継がれてきた物語でもある。それを思うとちょうど連載期間中に発刊された深紅の碑文 by 上田早夕里 - 基本読書と内容的に重なる部分が見えてきたりして、上田早夕里さんの他作品との関連で読んでいくのも面白いヨ。「選択」もね。このシンプルなテーマをただ突き詰めて考えていくだけで、それだけでもサイエンス・フィクションの領域に踏み込むことになる。我々はどこまで自分の意志で選択できているといえるのか。我々は「何を」選択できるのか。何もかも選択できるとしたら、何を選択すべきなのか。本作がどこまで切り込んでいくのかは、まあ読んでからのお楽しみというところで。

読みやすいし、ページ数的にも300ページ弱で完結しているが、中身はずっしりと重い。

薫香のカナピウム

薫香のカナピウム