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ディアスと月の誓約 (ハヤカワ文庫 JA イ 10-1) by 乾石智子

ファンタジィにしては美しすぎる。

ファンタジィは基本的には異世界の物語である。そこは我々のいる地球とは異なる世界であり、異なる種族が居て、異なる成り立ちと法則があることが多い。それじゃあ異世界であるならば、何を書いても良いんだ! とはならないところがまた難しいところで、地球に住んでいる人間を対象にして物語を構築する以上、そこにまったく意味不明なものが書かれていると、おいおい、地球人向けに書いてくれよな、となってしまう。「異世界」を書くことを求められ、かといってあまりに異なりすぎると人が離れていってしまう、バランスの難しいところを求められるのがファンタジィ作家というものだろう。

本作は冒頭の文章からしてふるっている。『いまだ大地が震えている。大地のきしみがつづいている。三つあった月は今や、一つを残すのみとなっていた。』竜によって域を吹きかけられ、魔法使いとなった人間がその強大な力をもってして月を大地に落とし、世界を繁栄させようとしているところだ。『その男は最初の月をひきおろし、月の力を使って、平らであった雪原の一部を台地となした。次に二つめの月をひきおろして植物を繁茂させた。すると雪原の凍土がどこまでも広がるこの大地の一角に、豊かな緑をはらんだ別世界があらわれた。』

幻想的な光景だ。魔法使いが渾身の力で3つもある月を1つずつ地面に引きずり落とし、それが台地を産み緑を生やす。そしてこれを観ているのはサルヴィという獣だ。魔法使いが月をおろしたせいで、サルヴィには月が宿り知能と特殊な力を有している。魔法使いとサルヴィのその後のやりとりもまたとても現実的なものとは思えぬ。最初に『ファンタジィにしては美しすぎる』と書いたのは、この世界の幻想的な美しさが「説得力あるものとして描き出す」ところを超えた代償ではないかと思わせるものだったからだ。月が落ちてきて台地になって、二つ目が落ちてきたら緑になるってなんでやねんと思われたらそこでオシマイである。

しかしびっくりするぐらいにすんなりと受け入れられる。もちろん描写それ自体の魅力や、月の象徴性があるからこそ強引に納得させられるというところもある。これについては後に多少述べよう。それ以外の部分でいえば、作品内でのバランスが一貫しているから、世界観内でのロジックに統一性があるのも一因だろう。たとえば、この一見した処無茶苦茶な所業はやっぱり作品内でも無茶苦茶であることが語られる。月をおろしたところで物事はよくなったりはしないのだ。それは自然の摂理に反しているのだから、いずれまた元に戻ってしまう。そしてまさにその点こそが本作の物語をスタートさせる起点となる。

 秋も終わりに近づいていた。上弦の月が、沈んだ太陽を追いかけるように西の空にあったが、それは決して沈むことのない月だった。地平線に接するほどにおりていっても、やがてまたその全身をあらわす。引きずりおろされた二つの我が子をさがして、空をさまようかのように。
 月を引きずりおろす、すばらしいことを成しとげたと人々は言うが、アンローサはときとしてそら恐ろしい気持ちになる。<緑の凍土>をつくった大賢者の力は確かにすごい。もとは凍土だったのだから、失われたものはなにもない、とみんな思っているかもしれない。だが、本当にそうなのだろうか。なぜかはわからないが、不安になる。

簡単なあらすじ

物語はサルヴィと月を落とした魔法使いの問答より170年ほど時をくだった、子孫の話がメインとなっている。サルヴィは角を残し、その角のおかげで凍土だった土地はちゃんと緑が繁茂したまま残っている。しかしサルヴィの角がひとたび崩壊すれば、この土地には突然病が流行りだし人々が死んでいってしまう。その為歴代の王はサルヴィの角がなくなる度に、遠征をして新たに生まれたサルヴィを仕留めにいき、その角を岩棚にさし、病から開放され平穏を迎える。しかし普通に考えればわかることだが、国家の命運がそんなストックすることさえできない角一個にかかっているというのは安全性やリスクヘッジなどあらゆる観点から問題がある。

効率的にサルヴィを繁殖させ、事前に何十個もストックする生産体制と保管体制が整っていないと危なすぎるだろう。そしてもちろんファンタジィ動物だからそんなことは無理だ。主人公のディアスは、魔法使いの子孫であり王の息子である。聡明に育ち権力欲にもとりつかれず日々を平穏に過ごしている彼だが、自身の兄にハメられて角を破壊した犯人に仕立てあげられ、角の代わりを得るまで戻ってくることのできない追放処分を喰らってしまう。ようは古典的な「跡継ぎを巡った陰謀」と「そこからくる追放」と目標を持った「行きて帰りし物語」というシンプルなプロットがベースになっている。だが、もちろんのことそもそもが都合の良いサルヴィの角だ。それの代替物がまた都合の良いものであるはずもない。

それまでの「面倒なことをサルヴィの角という便利なものに押し付けてきた」ツケを払う時が来る。まったくの異世界であってもそれが我々の胸にひびいてくるのは、こうした一つ一つの事象が我々の世界と同じ理屈をもって迫ってくるからだ。なんでもやってくれる便利な同僚がいたからぽいぽい仕事を放り投げて帰っていたら、突如辞められてあたふたする。奨学金をもらって遊び呆けてたら卒業後返さなくてはいけない現実に気がついて呆然とする。ためてきたツケは、最終的には何らかの方法で精算されねばならない。

だがその「選択」には、常に身を切らざるをえない痛さがある。そのつらい選択に至る過程も、その解決から苦悩まで含めて本作は先に書いた通りありえないほど幻想的で美しく描かれていく。

存在しない感覚を植え付ける描写

美しさというのは理屈を超えたものだ。たとえば理屈が理解できたら美に到達できるか? といえば、無理だろう。それは「魔法」という概念の難しさにも現れているのではないだろうか。たとえば、Aを入力したらBが出力されるといったドラクエ的な魔法は「それはもう魔法ではなく科学では」という疑念を抱え込んでいる。かといって何の再現性も理屈も持たせないのでは、単なる自然現象と変わらない。これは最初に書いた異世界のジレンマとも共通しているが。魔法を科学とは違う、れっきとした魔法として描くことや、異世界を異世界として描くのは案外と難しい物なのだろう。もちろんル・グインからハリーポッターに至るまで魔法を科学と隔てて描写するロジックはさまざまに展開されてきた。

しかし乾石智子さんの魔法の描き方はそれらとはまたちょっと違う。それはたとえていえば全く我々が普段持ち得ない感覚を想起させる描写とでもいおうか。我々は地面の上に立っているわけだけど、その地面と繋がっているわけではない。ところが乾石智子さんの作品の「魔法」を読むと、まるで大地とつながっており、我々はそれを完全ではないにせよある程度はコントロールできるのだ、なぜならそれは新たな身体の器官のようにつながっているのだから、と「感じたことのない感覚を植え付けられる」ことがある。二つの腕しか持っていない人間が四つの腕をコントロールする感覚を疑似体験させられるようなものだ。

物語終盤にいくにつれて徐々に加速度をあげていくこの世界特有の観念的・幻想的な描写は、あまりにも自然に「そうであることが当然であるかのように」語られ、世界観構築と文体が完全に一致してつくりあげられていて、全てが違和感なく美しく、幻想的に、「身体に」作用する。読み終えてふと本を手にとって一息つくと、この短くまとまった一冊の本の中に唯一無二の「幻想的な世界」が詰まっていることに気がついて、とても愛おしくなった。乾石智子さんの作品はでも、どれもそうなんだよね。今次々と文庫化しているところなので、コレ以外だと『夜の写本師』から始まるシリーズも読んでみてください。

ディアスと月の誓約 (ハヤカワ文庫JA)

ディアスと月の誓約 (ハヤカワ文庫JA)