基本読書

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不安定な世界──『氷 (ちくま文庫)』 by アンナ・カヴァン

氷と聞いて通常想起するであろう純白とは違い、本作の表紙は真っ黒に塗りつぶされている。しかし読み始めればすぐにわかることだろう、この黒さがこの作品のイメージを的確に伝えていることに。本作『氷』はイギリスの小説家であるアンナ・カヴァンによって書かれた長編小説である。物語は特異な──という他なく、「たとえば○○のような」と簡単には類似をひいてくることのできない作風によって成立している。小説としてというよりかは、まるでイメージそのものを押し込んだかのような冷たい氷の世界が本の中に広がっているのだ。

あらすじとしては、諜報機関に所属しているであろう男が、一人の少女に強く惹かれ、各地を追いかけまわしながら旅を続けていく。彼が旅をしていくことになる世界は、地球規模の気候変動によって氷が全世界を覆い尽くし、人類の歴史が終局に向かいつつある世界なのであった。

不安定な世界

わずか260ページ程の、コンパクトな物語だ。男は少女を追い、少女は逃げるわけではないが男に対して拒絶とも許容とも判断のつかぬ反応を返す。男も、最初は純粋に少女の身を案じているようにも思える。しかし彼の語りが(彼の主観で語られていく一人称の物語だ)続いていくうちに、すぐにその異常性に気がつくことになる。どこかが、何かがおかしいというほかない違和感が、不安のような形で積もり積もってゆく。この世界……というか語りは、どこかで決定的にバランスを欠いている。

あったことのみを描写していくような淡白な語り。それ自体はおかしくも何もないのだが、とにかく周囲の状況は氷が世界を覆い尽くし人類が終わりかねない状況であるのに、彼はそれについては特に自身の感情的な判断を挟まないかのように語る。ただそれはそうなのだと。世界中に氷が蔓延し、人々はパニックになり、戦争が起こって人がどんどんと死んでいったとしても、そんなことは今日の天気と同じような情報の一つであり、私にとって重要なのはただ少女だけなのだとでもいうように。その偏執性は、どこか極端に物事に執着を示す何らかの精神病のような性質を思わせるものだ。

だが同時に、彼の語りはパニック映画のように終局へと向かっていく人類や世界を描写しない。その彼特有の無感動で淡々とした語りによって、世界の情景が端的に浮かび上がってくる。感情に左右されることもなく、「ただ、終局へと向かっていく」美しい、世界そのものの姿が。

 天候に異変が起こっていた。本来なら暑く乾燥した晴天が続く時期なのに、四六時中雨が降り、湿気と寒気は消え去る気配もなかった。森の木々の梢には白い霧が厚くまとわりつき、空は絶え間なく蒸気を発散する雲の大鍋と化していた。森の動物たちも混乱したように、普段の習性とはかけ離れた行動を示すようになっていた。人間への警戒心をなくしたオオヤマネコが施設に近づいては送信機の周りをうろつき、見たことのない大きな鳥がそこかしこでやかましく飛びまわった。この鳥や獣たちは、人間が解き放ってしまった未知の危機的状況を前に、私たちに保護を求めているのではないか。私はそんな印象を持った。

語りと同時にこの世界の不安定さを増しているのは(全部語りから端を発しているのだから、すべて語りの問題だともいえるが)、時間も場所も次々と移り変わっていくこの旅そのものの異常性だろう。最初はわかりやすい状況設定からはじまる。彼と少女の馴れ初めだ。どの程度の年齢差があるのかは定かではないが、彼は傷ついていた彼女を最初は癒やし、仲を深めていた。しかし、少女はそんな彼から離れていき、別の男と結婚してしまう。それはあまりおもしろくないことだった。彼にとっては幸いなことに、少女は結婚した男に耐えきれなくなり、その家から逃げ出してしまう。彼の旅はそこから始まっている。男の元から逃げ出した少女を見つけ出すこと、そしてできれば保護をすること。

ところがこの物語が『私は道に迷ってしまった。』という文章から始まるようにあっちへこっちへ、意図のよめないいきあたりばったりな行動を彼は繰り返していく。あるときは港へいって船にのり、あるときは死体が転がっているような戦場へ、あるときは飛行機にのって空を飛んで、そこらじゅうを移動している。そしてその行く先々に少女がいて、長官と彼が呼ぶ、少女をめぐる一人の相手がいる。明らかに普通の状況ではない。この世界は恐らく我々のものと同一なのだろうが、具体的な国名は出てこないし人名さえも出てこない。場所の表現は常に回りくどく、明確にはぐらかしている『そこは、かつてどこかの国のどこかの町であったはずの場所だった』。どこででもありえるし、どこででもありえない。

時間も場所も人間さえも不確定、語り手である彼は少女を探すこと以外は主体性のかけらもなく流されるがままに任せきり。この世界は決定的に安定性を欠いている。しかし──それはこの物語にどのような効果をもたらしているのだろう? 一種の、現実における無情さの表現になっているようには思う。ただ車にのって果てしなく走って行きたいと考えてでもいるかのように、特に目的なく、だがそこかしこで現実の抵抗に(氷であったり、少女自身のものであったり)会い、そのたびに傷つきながらも前に進んでいく。

それは何も彼が無垢な存在で、周囲からただ傷つけられるというわけでもない、彼自身が、自身の無能さと残虐さに向き合う旅でもあるのだ。だけど結局のところ、そういうわかりやすい「効果」とかではないような気がするなあと最終的には結論づけるほかない。かつてどこかの国のどこかの町であったはずの場所。これはただそういう世界なのだろうと、どこかで割り切らせてくれるような「わからなさ」を抱え込んでいるのがこの『氷』という作品ではないだろうか。

詩を楽しむように、何度もこの世界を一瞬でも体験するために、これからも開き直すことになるだろう。

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)