基本読書

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暴力の解剖学: 神経犯罪学への招待 by エイドリアンレイン

犯罪者を特定する因子は存在するのか? 『暴力の解剖学 神経犯罪学への招待』 - HONZ に書いたものの転載verです。ただ転載するのもあれなので最後の方にHONZの読者層を考えて省いた部分を補填しています。

日本のようにかなり平和な国であっても人は人を殺す。メディアは盛んに殺した人間はどのような人間であったのか、どのような趣味を持っていたのか、いかにも人を殺しそうな人間であったのかはたまた普段は人当たりのよい人間だったのかとそのパーソナリティに迫ってみせる。そうした時に、やはり「どこにでもいる、あなたの隣にもいそうな人間が超凶悪な殺人犯でした! あなたも危ないかもしれません!」とただ危険を煽るだけだと問題があるのか、そこに何らかの特徴をつけて(たとえばアニメが好きだとか)報道することが多い。各自、そうした特徴に気をつけましょう、というわけだ。

しかしそうした単なる印象を超えて、「犯罪者」と「非犯罪者」を分ける要素は存在しているのだろうか。家庭環境の違い、脳の違い、遺伝子の違い、同じ状況にあってある人が暴力的な振る舞いに出て、ある人は出ないという、その決定的な境界線を超えさせる要素が? 本書はそれを解き明かす為の一冊である。悪の遺伝子は存在するのか? 脳の損傷は暴力性においてどのように影響しているのか? 社会的要因はどれだけ暴力を誘引させているのか? そして暴力性がある程度理解し、予防から「今後起こる犯罪の予測」まで可能になった未来にはいったいなにが起こりえるのかといった未来への視点まで含めて総括的に解剖していく。

もちろんそれを追求するのはなかなか難しい試みだ。「○○がある奴は全員犯罪者になる!」なんてこと、言えるはずがないし、それは容易に差別へと転換しえる。たとえばセロトニンと呼ばれる神経伝達物質がある。ドーパミンが衝動やモチベーションを生み出すアクセルのようなものだと考えれば、逆にセロトニンは気分を安定させドーパミンの暴走を抑える役割がある。セロトニンレベルを下げるドリンクを飲んだ被験者は、ゲームで不公平な申し出を受けると報復しやすくなる。じゃあ、体内のセロトニンレベルが平均とくらべてずっと低いのであればそいつは間違いなく犯罪者になるのか? といえば、当然そんなこともない。

セロトニンレベルの低さは暴力犯罪を行った者が犯罪に至った一因であったかもしれないが、それだけが原因ではないのだ。その原因の根本的な切り分けこそが、難しいところだといえるだろう。本書はそのあたりについては、単純に大量の実験例で殴りつける方式をとっている。一つ一つはうん? ちょっとまてよ、これは本当に調査として正しいのか? 相関関係と因果関係の区別を安易に混同していないか? あるいはサンプル数としてはこれで充分なのか? と考えこんでしまうものでも、いくつもの実験を積み重ねていくことで確かな方向と「少なくともここまでは確かだ」という基盤が出来上がってくる。

たとえば著者が41人の殺人犯を対象に行なった脳領域の代謝活動の測定実験は、殺人犯と正常対象群とでは明確に脳が機能的に異なることを示している。文字が浮かぶ度にボタンを押すだけの単純な実験において、正常対照群は前頭前皮質、後頭皮質ともに活動が非常に活発だが、殺人犯の前頭前皮質はほとんど活動していない。『概して、四十一人の殺人犯は対照群と比べ、前頭前皮質の糖代謝量が非常に少ない。(p.108)』。前頭前皮質に障害がある場合、衝動性の増大や自生能力の喪失といった様々な人格変化が起こることがわかっている。すべての殺人者に前頭前皮質の機能不全が見られるわけではないが、一つの傾向として存在していることは確かだろう。

本書はこのようにして脳や家庭環境がどのように暴力性に関連するのかと幅広く見ていくが、それは何も「犯罪者を非犯罪者から区別しよう!」という性質のものではない。たとえば妊娠中のアルコールやタバコの摂取が生まれてくる子どもの犯罪率に大きく関わってくることも(慎重に第三要因の統計的コントロールを行った上で)わかっている。こうした犯罪率を上昇させ得る初期の過程を特定することができれば、事前に対処することによって、後々の人生において暴力犯罪を少なく出来る。

それはもちろん「そうなってしまった後」たとえばセロトニンレベルが低いだとか、前頭前皮質のように暴力に結びつく部分が悪影響を被った後でも対処可能なものだ。自分自身が暴力に結びつきやすい衝動を抱えていると明確に意識されれば、自分だけでもそれを抑える、あるいはそもそも衝動が発生しないように立ちまわることも可能になるだろう。しかし、この研究がより実際的な物となっていった場合、自己の制御という自己責任の枠を超えて国家的な介入プログラムや、法律面での改訂にまで至る可能性もある。

たとえば──犯罪者の脳が、犯罪を犯さない人間の脳とくらべて機能的に「損なわれている」ことがわかったとする。小児性愛を突然持つようになって事件に及んだ人が、実はある時期から脳にでかい腫瘍をかかえていた、それを切除したら小児性愛への指向が綺麗さっぱり消えた、となった時に、多くの人は同情的になるだろう。一方そういった腫瘍が見つからない小児性愛者の脳はほとんど調べられないし、単純に自由な選択をする行為者と判断され、非難される。しかし技術は向上し続けるので、脳の測定精度が向上するにつれ、人がなぜ犯罪に走らざるを得ないのかを、神経科学はもっとうまく説明できるようになる。今は非難される犯罪者も、20年後には同情されているかもしれない。

神経犯罪学が発展していった先には必ずこのような問いが浮かび上がってくる。いったい犯罪の責任はどこまで自由意志に求められるのか、どこまでが脳の、どこまでが環境の要因だったのか。有責性が技術の限界で決まるというのは筋が通らないのではないか、と。

本書は「未来」と題した最終章で「ロンブローゾ・プログラム」という今から20年後の世界に存在しているかもしれない仕組みを仮説的に提示してみせる。ある程度の年齢がいった男性を対象に脳と遺伝子スキャンを行って、犯罪率などにおいて陽性と評価されたものを特別施設へ収容し、改善のプロセスを走らせる仕組みだ。こうしたSF的な問いかけは、実際そこまで出来が良いとは思わないし、何もしていないうちからその行動の自由を奪うやり方はどう考えても許されるものではない。だが「犯罪に走る可能性が79パーセントある人」を何もせずに放っておいていいのかという問いが無視できないものになりつつある我々の世界においては、現実感を持って迫ってくる。

これまでの、そしてこれからの人間と暴力性の関係について考えるためには重要な一冊だ。

暴力の解剖学: 神経犯罪学への招待

暴力の解剖学: 神経犯罪学への招待

補填分

と若干あおり気味に書いてきたここまでが概ねHONZ分だが、実際のところどうなのだろう。なかなか難しい試みのようにも思える。もちろんその困難な部分に切り込んで基礎を築きあげようとした作品だからこそわざわざ取り上げたわけだけれども、個別の具体例を一つ一つ丁寧に追っていったら思っていたよりも微妙な部分で、明確にこれだっていう答えを出すわけにはいかない感じだったよ、ということになりかねない気もする。膨大な量の参考文献があげられてて今回はほとんどおえていないけれど、今後気をつけていきたい分野だ。

未来の部分、これからどうなっていくのかという部分については自由意志はどこまで認められるのか問題と合わせてやりづらい個所でもある。実際、技術の進歩によって罪の多寡が決まってしまうのはどうなのっていう問題提起を僕が最初に読んだのは意識は傍観者である: 脳の知られざる営み - 基本読書 だし。問題自体はこれよりはるか前から議論されてきてはいるけれども、ようやくちょっとはまともな議論ができるようになってきたのかなっていう状態でしょうね。

そしてロンブローゾ・プログラムのあたりはあれですね、完全に『マイノリティ・リポート』とか『PSYCHO-PASS』の世界。ちょうどこれを読んだ次ぐらいにPSYCHO-PASS GENESIS 1 by 吉上亮 - 基本読書 を読んでいたのでシンクロ感が凄かった。後者に関しては「犯罪係数」という犯罪を犯す確率の高い人間をシステムで弾きだして一定の数値を超えたところで強制的に執行されてしまう世界ですから暴力性はよほど高いけれども。1984も遠くなり1Q84なんてものが出るようになった現代では、そういうディストピア世界は当たり前ですけど「そのままの形」ではこずに、わかりにくい形、みんなが喜んで自ら先導するような形で進行していくものなんだろうなというのが実感されてきている。

逆にこれをできる限り現実で本当にありえそうなシステムとして描こうとしてしまうと、SFなんかはすぐに現実に追い越されてしまうので難しいところでもある。最近だと月村了衛さんの機龍警察やら藤井太洋さん、マージナル・オペレーションや早川のSFをぽつぽつ出してる芝村裕吏さんは現実と地続きの近未来を舞台に展開することが多いから、技術と世界情勢との兼ね合いで追いかけっこが大変そうだ。

アンダーグラウンド・マーケット

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