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科学と非科学の物語──『エクソダス症候群』 by 宮内悠介

エクソダス症候群 (創元日本SF叢書)

エクソダス症候群 (創元日本SF叢書)

宮内悠介さんというのは不可思議な作家であると思う。

何より不可思議だと思うのは、その作品の方向性が毎度毎度大きく異なっていることだ。僕は『盤上の夜』よりも先にNOVAに書いていたスペース金融道シリーズを読んでいて、「これは新しい着想で面白いことをやる人がいるもんだな」と作品自体は覚えていたにも関わらず『盤上の夜』が同著者によるものだと読み終えた後もなかなか気付かず、その情報を得た後も半信半疑だった。その後の『ヨハネスブルグの天使たち』はさすがに著者名を知った上で読んだのでそうした錯誤は起こらなかったけれども、知らずに読んでいたらやっぱり気が付かなかったかもしれない。

世界観とエクソダス症候群について

その印象は3作目の『エクソダス症候群』に至っても変わることはない。『ヨハネスブルグの天使たち』でヨハネスブルグやニューヨーク、日本と世界を描写しながら戦争・テロ・紛争に絡み合うロボットの物語を展開したかとおもいきや、その次に発表してきた長編は火星を舞台にした精神医療物なんだから。内容だけではなく文体も大きく変わっている。随分エモーショナルに、情景を劇的に魅せるかのように構築されていた文体から、本作は目の前で起こっている事実のみを淡々と描写し続けていくような精神科医カズキ・クロネンバーグによるフラットな一人称視点となっている。

火星に人が移住し、普通に暮らしているほどの未来だ。当然、人類は病を克服し身体をデータ化し精神病なんていうものとは無縁の生活を送っていてもおかしくないではないかと思ってしまう。テラフォーミングなんかもガンガンしちゃって、火星政府は地球に対して自由独立を宣言して……しかしここで展開される火星世界は全く異なる。人々は地球を飛び出し火星に移住してなお新しい精神病を発動させそれに苦しんでいる。どれだけ宇宙に広がろうが、遠くまで行くことになろうが、自分自身からは逃れることができないのだとでもいうように。

 ベッドも出られずに暗い淵を見つめる夜はない。職場近くの駅で足を薦められず人前で嘔吐する朝はない。ペーパーが、マガジンが、報道が、秘密の暗号で自分の悪口をささやくことは、ない。躁鬱が、統合失調が、神経症が地上から滅びつつある。それでいて、自殺率は減るどころか増えた。
 アカデミーの長老たちは新たな病名を作った。いわく、突発性希死念慮。
 よく言われる冗談──。
 症状は寛解した。しかし患者は自殺した。

地球で精神科医をやっていたカズキ・クラウジウスはとある理由により、火星の精神病院に転院してくる。この世界・時代での火星がどのような場所であるかというのは、あまり説明はない。設定的にこの火星世界の社会をわかる範囲で抜き出してみると、宇宙エレベータが存在しており、地表は高分子ポリマーで出来た小さなキズは事故修復する泡によって居住地が形成されている。それも惑星中に行き渡っているわけではなく、惑星全体の人口はたったの60万人程。

まだまだ移民のはじまったばっかりで、作中の端々から伝わってくる描写を統合しても最新のリゾート地といった趣はまったくない。独立を宣言できるほどの基盤もなく、地球とは比べ物にならないほど過酷な環境であり、わざわざそんなところに移住せざるを得ない怪しい人間の巣窟であり、大きなチャンスの眠っている開拓地といったところだろう。そんな怪しげな土地・火星において何より(物語的に)特徴的なのは、ここでは既に地球では見られなくなった、本書の書名にもある「エクソダス症候群」が存在することだ。

妄想や幻覚が現れ、症状的には統合失調症とよく似ている。違うのは患者がみな脱出を基軸とする一様の妄想や幻覚にとらわれる点だ。地球という惑星を離れたことによって、今度は地球への帰還という妄執が現れる。火星に行くほどの技術力を有して尚人類は精神病から逃れることが出来ないのだ。物語はこれまでの世界の精神病の治療史をたどり直し、エクソダス症候群や突発性希死念慮という二つの大きなこの時代特有の現代病を解き明かすかのようにして展開する。

いったい、この二つの精神病はなぜこの時代に生まれてきてしまったのか。治療法の正解は薬にあるのか、外科手術にあるのか、はたまたそのどちらにもないのか。精神病は密接にその社会状況と関わっており地球の、火星の取り巻く社会状況も同時に明らかになっていくのが真っ当に精神病物語としておもしろいところだ。

文体の話、あるいは科学と非科学の物語について

距離をとって構築された文体だ。未来の火星の話でありながら、それはまるで歴史を綴る歴史家が、こんなことがあったのだと昔話としてかたるような。かつて人体の悪い血液を出してやることで病気を治す瀉血を当然の治療として受け入れている社会があったことを我々は知っている。脳の一部を切り取るロボトミーが流行した時期もあったし、現代はとにかく多剤大量処方だ。過去に当たり前のように流通してきた精神医療界隈の治療、今ではその殆どが正当性のほとんどないトンデモ手術だったことがわかっている。

 「こうした療法を安易だと言うことはできるが、当時には当時の論理があった。このころ、人々はただ推論することしかできなかったのだ。それによって、ありもしない因果関係が見出され、無根拠で野蛮な治療が生まれた」
 だが、とチャーリーは言う。
 「わたしはこう思う。そこには精神というものへの眼差しや洞察があった。少なくとも、人々は考えていたのだ」

科学的に割り切ることの出来ない精神を相手取り、科学的な方法論はどこまで有効なのだろう。正解の見えにくい精神医療の未来の姿を描いてみせる本作はいってみれば科学と非科学の物語だ。極力距離をとった文体は、「未来の精神医療」の景色もまた歴史となり、後世の研究と試行錯誤の連続によって否定されることを前提とした、様々な解釈を誘発する素材として際立たせているように思う。

起こっている事態・見えている情景それ自体は『ヨハネスブルグの天使たち』と遜色ないレベルでドでかい事なのだがこの文体のおかげなのかなんなのか、それほど大きな物事が進行しているようには思えない。そもそも本作の語り手・主人公であるカズキ君は精神科医という、物語の盛り上げ的にはいささか頼りない職業だ。ところが、一人の精神科医として「エクソダス症候群」に立ち向かっていく彼の姿は、抑えた文体に加え、地味な情景であるにも関わらず、あるいはそれ故に、静かに溢れ出てくる緊張感を漲らせている。

狂気を描こうとするのならば、そこからは極力距離をとらねばならないのかもしれない。

おわりに

先月末に出た本で、出た後すぐに読了したのだがなかなか記事を書く気になれなかった。一読しての印象は、プロットはごたごたしているし、精神医療史など素材がまるっと押し込まれているようでちとバランスが悪いな、まあ初長編だからなと思っていたが、それ以上にこの抑えに抑えた文体とそれが描き出す精神医療と土っぽい火星の乾いた情景は実によく合っていて、あまりない手触りを呼び起こす。それを自分の中でいったん落ち着け、再読して記事を書くまでに一月近くかかってしまった。288ページと、昨今の長大なSFと比べると割合コンパクトにまとまった作品だが、未来の精神医療史まで物語として内包したかのような重い一冊だ。