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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

人間、その不確かさ──『逆行の夏: ジョン・ヴァーリイ傑作選』 by ジョン・ヴァーリイ

逆行の夏: ジョン・ヴァーリイ傑作選 (ハヤカワ文庫SF)

逆行の夏: ジョン・ヴァーリイ傑作選 (ハヤカワ文庫SF)

本書『逆行の夏: ジョン・ヴァーリイ傑作選』ジョン・ヴァーリイ傑作選の名のごとくベスト・オブ・ベストな中短篇が6篇収録されている。ハヤカワ文庫補完計画の中の一冊だが、復刊でも新版でもなく新たに編まれているのが特徴的か。500ページ超えているにも関わらず6篇しか収録されていないのは要するに100ページに近いか、完全に超えている中篇が3つ収録されているからで、そのどれもがまったく違った奇想──といってもいいだろう──を軸に、魅力的に表現していく。

ジョン・ヴァーリイ*1読むのはじめてなんだけど*2、自然と人間存在の枠を撤去し、この世に存在しない、言語にしづらい感覚的な部分を体感できる言葉にして出力していく豪腕で繊細な文体(これは各訳者陣の技術によるところも大きいだろう)・表現力にあっという間にとりこにされてしまった。

人間の枠を破壊するような短篇群

さて、実際に短篇の話に入っていこうかと思うが、読んでいて面白かったのはほとんどの場合「人間の身体性」がテーマとして浮かび上がって、それが結果的に社会の在り方に接続されていく点だ。たとえば表題作にもなっている『逆光の夏』は男女の性別が自由に変換できるせいで、あれあれ母親? 父親? 姉は兄だし僕は男だったり女だったりという短篇でその設定ならではの世界観が見事に物語に密接に絡み合っている。男性でも女性になれるから、その社会では子どもを産むのにわざわざ二人でタッグを組む必要がなく、ひとりの人間に、ひとりの子供が道徳として当たり前のものとなっている。

『さようなら、ロビンソン・クルーソー』は生を普通ならば終えている年齢であっても身体を乗り換えて次の生を謳歌することのできる世界を生きる「二代目」の人間の話で、その新しく創りあげられた身体は水中でも地上でも呼吸することのできる水陸両用人間なのだ。歳をとって衰えた身体を棄て、新たに若々しく今度は水中でさえ呼吸できる身体を得て、ういういしい童貞のようにセックスにいそしむ老人の描写はいきいきとして身体そのものへの感動に満ちている。

『バービーはなぜ殺される』は誰もが同じ顔をして、俗世の名前を棄て、競技にのっとり誰もがその個性を消すことに奮闘する統一教がメインアイディアになる。統一教の人間はバービーと呼ばれ、誰もが同じような顔をして同じような生活を送りまったく区別が不可能なので何か事件を起こしてもまったく見分けがつかないので調査が不可能である。そんなバービーたちの集落で、バービー自身によるバービー殺しが起こって──こっちは身体の変容ではあるが、「無個性」に向けた身体の変容を扱っていてそれはそれで異質さが際立っている。

90ページ程あり僕が本書でも特に好きなのが中篇『残像』。1964年にアメリカで風疹が大流行し、大量の妊婦がこれにかかり、中絶手術の技術もないせいで視覚と聴覚の両方に障害のある赤ん坊が1年間で5000人生まれた。明らかに厄介ものである彼らはしかし、5000人もいて、必然的に狂人から創造的な人間まで多様なパターンの人間が含まれているものだ。一部の革新的で夢想家で独創力があった存在が盲人のみのコミューンをつくりあげ、主人公は荒廃した世界で、コミューンからコミューンを渡り歩くうちにその盲人のみで構成された奇妙なコミューンに流れつき──。

この中篇で何より素晴らしいと思ったのはこの盲人コミュニティの生活の在り方、コミュニケーションの取り方、その描写そのものだ。「身体の変容生関係なくね」と思われるかもしれないが、視覚も聴覚も剥奪された彼らはその動作を基本的に触覚によってとりおこなう、それが実に身体的なのだ。眼も耳も使えないので、そこでは身体へのほんの些細なタッチで無数の意味を表現する。言葉でのコミュニケートとはまったく異質な身体的コミュニケーションである。その性質上、触る場所によって性的興奮が伴うこともあるが、みな当たり前のようにそれを良しとする。

 ケラーの住民は、客観的にみれば同性愛者だったが、わたしはそんなふうに考えることはできなかった。あれはもっとずっと奥が深かった。彼らは同性愛者のタブーなどという深いきわまりない概念は思いつきもしなかっただろう。それは彼らが最初に学んだことのひとつだった。同性愛と異性愛を区別したら、人類の半数との意思疎通を、完全な意思疎通を──放棄することになる。彼らは汎性欲主義者であり、セックスを人生のほかの部分から切り離すことはできなかった。ショートハンドには英語のセックスに直訳できる単語は存在すらしないのだ。男性と女性をあらわす単語には無数の変化形があったし、英語では表現できない肉体経験の程度と種類をあらわす単語もあったが、それらの単語はすべて、経験の世界の別の部分をあらわすものでもあった。どの単語も、わたしたちがセックスと呼ぶものを、それ専用の狭い部屋に閉じ込めてはいなかった。

『ブルー・シャンペン』は、過去に起こった体験そのものをDVDか何かのように再生できる体験テープ(テープというのが時代を感じさせる)がある世界の物語。当たり前のようにセックス・テープなどもつくられているが、「恋に落ちる」気分の体験テープだけはつくることができないでいる。

なぜなら、記録にはある程度の機材と状況が必要であり、それがお膳立てされてしまった状況下ではそうした「作為性」を感じてしまって恋に落ちることなどできないのだ。主題はこの「恋に落ちる瞬間を体験テープに落とし込めるのか」になっていくわけだが、その為に出てくるヒロインの一人が「首の骨をおって身体の操作をボディーガイドと呼ばれる補助システムに頼っている」点に身体性のテーマが一貫しているのをみてとることができる。

最後に『PRESS ENTER■』は、著者があまりパソコンに詳しくない状態で書かれた中篇であることも手伝って「なんだそりゃあ」というオチがきて個人的になんだか微妙だったけど、それを除けばテクノホラー風味作品として良い出来。隣人から何度も留守電がきて、業を煮やして家までいってみれば見事に死んでいる。自殺だろうとおもいきや遺書はないし、しかしコンピュータをみてみればそこには「あなたの名前を入力してください。■」との文字が──。

『なんだこれは。冗談じゃない、インタラクティブな遺書か』という警察の発言がバカバカしくて笑える。インタラクティブな遺書とか、つくってみたいもんだ。物語はもちろん、「なぜそんな文字がパソコンに浮かんでいるのか──」を追いかけることで展開していく。現代的な貞子とかつくったらこんなかんじになるのかもしれないなと思った。

総括的に

どの中短篇も軽々と一般的に考えられている「人間」の枠を越えていく(『PRESS ENTER■』はちょっと違うけど)だけでなく、その先に常に何らかの空想的な社会状況を想定してみせる。『バービーはなぜ殺される』でいえば、「個性」を消失させた無個性集団だし、『残像』であれば盲人だけが集う盲人社会であるように。そして、そんな社会・コミュニティ・状況がどのように機能しているのかを実に説得的な文章で表現していく。

超越した状況であっても、その描写が卓越していれば、存在し得ない社会がまるで実在の社会よりも存在感を持って読めてしまうがために「不可思議な感動」を覚えるものだ。『わかってるはずよ。あなたも言葉での表現から自由になれればいいのに。*3の言葉そのままに、まるで言葉に表現し得ない感覚そのものを言葉に正確に移し替えてみせたような描写の数々に、ぐっと惹きつけられてしまった。

ちなみに

ちなみにヴァーリイの中短篇の多くが属する<八世界>シリーズに属する全13短篇を独自に編集して収録した短篇集を、創元SF文庫から二巻本で出すことが決定しているという。それも何年後やねん? というあやふやな決定ではなく、2015年秋から。たまたま──なのかどうかは知らないが、その先兵として本書『逆行の夏: ジョン・ヴァーリイ傑作選』が出たことを嬉しく思う、何しろ事前に「こんなすさまじい作家がいたのか」と知れたわけだから。楽しみに待ちたい。

*1:ヴァーリイは1947年生まれのアメリカ作家で、本書に収録されている短篇は1970年代や1980年代のはじめに書かれたものなのでちょっと技術的・科学的に古くさいところはある。DNA鑑定がないことを前提にしないと成り立たない短篇もあるし。そもそも僕も読んだことがないどころか名前すらはじめて聞いたみたいな状態で、「さすがに名前すら聞いたことがないのは変だなあ」と思っていたが90年代以後はほとんど作品も発表されず、翻訳もされない状況が長く続いていたのだという((近年はまたSF小説に復帰し、長編SFを書いているようだ。

*2:仮にもSFマガジンで海外SFブックガイドを担当していながらこういうこと書くのけっこう恥ずかしいんだけど、しったかしてもしかたがないから……

*3:『残像』より