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伝える、ただそれだけの難しさ──『王とサーカス』 by 米澤穂信

王とサーカス

王とサーカス

「事実」というと、それは目の前にあることなんだから確認するのは簡単だろうとおもいきや実際にはなかなか難しいこともある。そりゃもちろん今日何回トイレにいっただとか、自分が何歳だとかいった「事実」は簡単にわかるところではあるが、ちょっと複雑性が増すと──たとえば事件報道なんかになると途端に「何が事実なのか」を確認するハードルは跳ね上がる。殺人事件が起こった時、犯人の動機はもっともらしく飾り立てられるがそれがどこまで「事実」なのかいったい誰に判定できるというのか。わかりやすく誰もが納得する筋道の通った理屈なんか通らないこと/相反する事態が同居して矛盾状態になっていることもけっこうである。

王とサーカス

本書『王とサーカス』は実際の事件として起こったネパール王族殺害事件 - Wikipediaを題材として、『さよなら妖精』の登場人物の一人*1でもある太刀洗万智が十年の時を経てこの事件を経験し/真実を伝えることの意味/記者として、何のために書くのか/何を伝えて、何を伝えないのか──という大きな問題に直面していく。

そもそもネパール王族殺害事件が何かといえば、当時の王太子が国王や連なる王族を何人も銃で射殺して大きな問題となった事件である。たまたまフリーライターの初仕事(の休暇も含めた前乗り)でネパールに居合わせた太刀洗万智がその事件を記事するために取材に動くのだが──と物語は大きく動き出して行く。ネパールは情報を秘匿しようとしているのか事件の情報を小出しにするおかげで、王太子は死んだとか、死んでないとか、やれ復讐だ王位の為に殺したのだと様々な情報が錯綜していく。「書名の一部である「王」はつまるところこのネパール王族殺害事件の王をさしているわけであるが、それではサーカスは何なのか。

太刀洗万智は取材を続けるうちに、一人の関係者から取材拒否をする理由を語られる。明らかにネパールにとって恥となる事件であり、なぜそれを世界にわざわざ公表しなければならないのか。正しい情報が広まることで助けがくるかもしれないが、必要がないとしたら、情報を広める理由なんてないのではないか。仮に、伝える必要があるのだとして、太刀洗万智が書くであろう小さな日本の月刊誌に載せることでいったいどのような意味があるのか。『「タチアライ。お前はサーカスの座長だ。お前の書くものはサーカスの演し物だ。我々の王の死は、とっておきのメインイベントというわけだ。」』

もちろん、報道は何もこの世の絶対正義の名のもとに行われるものではない。国営放送ならまだしも大半の報道機関は基本的には利益追求組織でもある。真実を伝える意味があるのか? ちゃんちゃらおかしいぜ、なぜならそれは金になるから、あるにきまってる! サーカスの座長? 結構結構、好きなだけ踊ってもらうぜ! と開き直れるのならばそれはそれでいのかもしれないがそういうわけにも太刀洗万智の場合はいかないのである。だからこそ「それにもかかわらず伝えなければならないという哲学」があるのかどうか、に悩み/思考し、その難しさをそのまま「ネパール王族殺害事件」と自分が巻き込まれた騒動を中心として体験していくことになる。

真実をめぐる難しさ

米澤穂信さんは作品ごとに大きく文体を変えてくるのだけども、本書の文体は大きく煽ることもなく、感情的な変動が極力排除された、淡々と事実のみを伝えるような太刀洗万智の一人称で語られていく。それは彼女自身のパーソナリティを表していて、作中で何度か他のキャラクタから「感情や驚きが顔に出ないねえ」と言われることからもわかるように非常にクールだ。東洋新聞で6年勤めたものの、同僚の自殺をきっかけに仕事をやめ、先に述べたように今はフリーライターの初仕事として休暇もかねてネパールに前乗りしにきた。

このネパールの描写が、淡々と描かれていくもののどれもしっくりくる。そもそも時代的には2001年のことなので、10年以上前のネパールがどんな空気だったのかなんてさっぱりわからないのだが、観光客に物を売りつけに来る貧乏な子ども、バザール、食事処と、街の特徴が描写されるだけでなんとなくネパールに行ったような気分になってくる。『カトマンズに来て以来、木材の茶と煉瓦の赤ばかりが街の色だった。バザールでは色とりどりの絨毯や布地、果物や野菜、セーターやTシャツが目を楽しませてくれたが、建物そのものは赤褐色から大きくハズレない。しかし、八津田に連れられて踏み込んだ場所は、色彩の洪水だった。』

本書で太刀洗万智はさまざまな問題に直面するが、そのうちのひとつは真実とは何かを知る、ただそれだけのことではある。それはわかりやすいプロットラインとしては、彼女と取材の為会ってくれた一人の軍人が翌日死体となって発見されたことをめぐって展開するが、同時に幾つもの「真実の姿」を巡る描写が連続していく。たとえば冒頭から一貫して描かれていくこうしたカトマンズの風景もその一つ。来たばかりの頃、こうした風景について太刀洗万智はさまざまなことを感じ、我々読者もそれを追体験していくわけだが、街の住人の一人一人が何を考えているのか、何を実感して日々を過ごしているのかといったことは表面的な行動や言動だけではわからないものである。

物をかたことの日本語で売付けに来て、朗らかに笑っている物売りの子どもが何を思っているのか、真っ当に見えご立派な理屈を並べ立てる立派な軍人に見える男は全ての面において立派な男なのか、人間、目に見えて行動として現れていることだけでは心中で何を考えているかなんてさっぱりわからない。もちろんそれが本当の意味でわかることなどありえないのだが、小説ではそれが演出として可能であり、次々と明らかになっていくこの街と住人の「表」と「裏」は読みどころのひとつだ。

クールでありながらも内面は熱く、さらにその内部は冷たく冴え渡っている

太刀洗万智の一人称文体は確かに、事実そのものを取り上げて述べていき、感情の変動があまり挟まれないクールなもののように思える。しかしところどころ現れる感情的な側面、彼女が直面する問題に、何をどう考えていくのかといった道筋、また行動そのものを読み進めていくうちにクールに見える文体の内側に普通ではありえない純粋さを伴った行動原理が立ち現れてくる。その行動原理と共にもう一つ立ち上がってくるものもあり──。

カトマンズそのものと、そこに住む人々の複雑な内面、さらには一人称文体を通して読んでいくうちに太刀洗万智自身の内側に潜んでいる多層的な心理状態、そしてもちろん太刀洗万智が遭遇する事件と、幾つもの事実の層が折り重なって、「真実/事実」がいかに多様な側面を持ちえるのかをこの割合コンパクトにまとまっている長編一冊の中に投入している。クールでありながらも内面は熱く、さらにその内部は冷たく冴え渡っている物語/文体/キャラクター描写であり、その達成に、米澤穂信さんの作家としての新しい面/進化しつづけていく能力を見た。

さよなら妖精 (創元推理文庫)

さよなら妖精 (創元推理文庫)

*1:ちなみに、2004年に出た『さよなら妖精』に連なる作品ではあるが、登場人物が一部共通するぐらいで基本的には別物・時間的にも連続していないので、独立した長編として読むのに何の問題もない。