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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

当たり前のように「生と死の間で生きること」──『ゾンビ日記 2 死の舞踏』 by 押井守

SF

ゾンビ日記 2 死の舞踏

ゾンビ日記 2 死の舞踏

ああ、『ゾンビ日記』がなぜか突然文庫化したなあ……と思ったら同時期に『ゾンビ日記 2』が出た。とても続きが出るような終わりではなかったので驚いたし、ゾンビが蔓延した世界で、ただ一人生き残った男が淡々と日々の日課としてゾンビをスナイプしながら死について、文明について思考を続けるアンチ・物語的な物語は基本的には一発ネタだと思っていたのだ。huyukiitoichi.hatenadiary.jp
現代日本人たる我々の日常風景からは「死」は周到に排除されてしまっており、死ぬときはだいたいにおいて病院にて死ぬし、死にたいと願ってもなかなか死なせてもらえないし、自由意志らしきものが病気で消え去ったあとですらひたすら何をも目的としないまま延命されることが珍しくはない。養老孟司さんはそうした状況を、「理性で割り切れる世界」という宗教観に支配されたこの世界では「自分はなぜ死ななくてはならないのか」という理性で割り切れない問題に対処できないからだと言ったが。

日常的にゾンビが蔓延し、生きている人間はもっぱら見当たらない死=ゾンビが文字通り隣り合わせの日常。押井守さんがゾンビ日記で描き出す世界は死を忘れてしまった世界に突きつけてくる「死を意識せざるを得ない状況」そのもので、その世界で生きる登場人物は否が応でも死について考えざるを得なくなり、深々とその思考を文明、身体性、逆説的に、こんな死の蔓延した世界でなぜ生きなければならないのかと生にまで広げていく。そのコンセプト自体は、ゾンビ日記1から2に至っても変わりはない。

本書は突然ピンクになった色合いがまず目をひくが、これは主要登場人物がただ淡々とゾンビをスナイプし続ける男から、化粧を丁寧に行い、マニキュアを塗り服装を着込んで自身が「舞台」と呼ぶ場所へ出て一日50人の「死者」を殺す女性へと移り変わったことだろう。男性から女性へと変わったことは思考に影響を与えるというよりかは、化粧をし、着飾り、ようは自分自身に装飾をすることからくる装飾と文明の変遷と身体感覚の話にテーマが変遷している。

 髪を左肩のところでひとつに纏め、ゴールドの飾りの付いた黒いゴムで留める。
 濡れることを考えてファンデーションは薄めに刷き、ウォータープルーフのマスカラを入れた。アイシャドウはブルーグレーの上に、薄くゴールドのパウダーを載せる。
 マニキュアはラメ入りピンクか濃いブルーのどちらかにするかで迷ったが、発色のいいシャネルのミッドナイトブルーを選んで丁寧に塗り、艶出しのトップコートを重ねた。
 ネイルが乾くまでの時間を煙草で潰すことに決め、椅子の背に懸けてあったガウンを羽織って席を立った。

自己に装飾を施し、いつもとは身体を意図的に変質させることによって「死の舞踏」へと赴いていく、一人の女性──。他、押井守小説作品及び『ゾンビ日記』と同じく、銃器の描写はよりテクニカルに、具体的に、動作を一つ一つ記載していくのは相変わらず。別の主人公を採用した作品なので、わざわざ「2」とつけて1を読んでない読者をふるい落とす必要があるのか──と最初は思ったけれども、時系列的には明確に1の後になるので、確かに続編感は強い。

さて、此処から先本書の話をどうしていけばいいのかちと途方にくれてしまう。何しろほとんど何事も起こらないし、彼女の他には誰も出てこないし、彼女が延々延々と今の状況、死について、装飾をすることについて、身体について、糞についてと考えを続けていくだけなので、僕としてはそれをかいつまんで紹介するぐらいのことしかできないだろう。何しろ冒頭からほとんど40ページ近く糞をすることについての考えをつらつらと述べ続けていくのだ。これもまあ、ゾンビ日記1を読んだ方々には分かっていることだろうと思うが。

糞から話を始めるのは、身体性を話の主軸の一つとしている限りは実に真っ当なように思う。我々は若い時はあまり身体の限界を感じることはないが、だんだん年を老いていくことでその性能が落ちるにつれ、「身体の限界性」みたいなものを強く意識するようになる。それはこれまで物を書いてきた作家らの人生を眺めてみれば明らかだが、押井さんの場合は途中身体を壊しかけたり、あるいはそれをきっかけとして空手をはじまりといった経験を通して「身体」についての思考を深め、今があるのだろう。

ちょっと話がそれたが、ようは身体性は若い頃はあまり意識されないが、それでも糞を垂れ流す時、身体性、身体を循環しているなにものかについて、意識せざるを得ない。今でこそ糞尿はトイレでするのが当たり前で、トイレに放たれた糞尿は即座に見ずに流れてサヨウナラー。道端で、ひと目がつくところで垂れ流そうものならあっという間に忌避され、人が離れていくだろう。しかし江戸時代を振り返ってみれば糞は肥料として重宝され金に代えられたので糞尿泥棒さえ起こっていた。

 水洗トイレが「目に触れさせなくする」のは、たんに目の前に落とされた糞便という物質だけではない。それは、その後の糞便の処理の過程を「目に触れない」ものにしている。水洗トイレによって実現される生活の清浄化という便益、それは現代文明を築き、それを生きる人間を生産することに他ならない。

時代によって糞尿への忌避感、嫌悪感はまったく異なるものであり、ようはそれは社会的、文明の状況によって変性するものである。それはまったく「死」、本書を舞台にしていえば「屍体」こそもまた同じであって──と糞尿の話から死体の話へと接続し、当然問いは「なぜ死を現代社会は忌避するのか」など広がっていく。

おわりに

前作を読んだときは僕はただ「ああ、銃器の描写を執拗にやりながら、自分の考えをフィクションの体裁で表現したいんだなあ」ぐらいにしか思っていなかったが、本書を読んで印象が変わった。死について強制的に考えざるをえない状況を前にして、死を身近な、当たり前のものとして生きる状況を描くこと。現代からは徹底的に失われてしまった「死」を目の前に起き続け、パニックムービーのようにわーきゃー言わせ、逃がし、死を撃滅させるのではなく、ただただそれを「隣に置き続けること」。

当たり前のように「生と死の間で生きること」を表現する装置として、きちんとその表現形式としての役目を果たしているのだと。「ただのぐだぐだした引用語りが続くだけじゃないか」と思うかもしれないがこれがなかなかどうして面白い。

ゾンビ日記 (ハルキ文庫 お 18-1)

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