基本読書

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職業がもたらす特殊な習慣や傾向──『作家という病』

作家という病 (講談社現代新書)

作家という病 (講談社現代新書)

長年新潮社に勤め、文芸、文学界で編集者として活躍してきた校條剛さんが放つ作品ではなくエピソード集/作家評論のような本である。21人もの作家についての思い出がたり。遠藤周作などの著名な作家もいれば、今となってはあまり知られていない作家も含めて、人柄や当時自身が体験した、見聞きしたエピソードなどを展開していく。もちろんそれが単なる思い出の羅列であるわけではなく、それぞれが作家で居続ける為に、不可避的に発生してしまうような「作家としての業」を抉りだすような構成になっている。

 作家であるということは、ある恍惚感を伴う。そうでなければ、一字ずつ文字を刻んでゆく地味で厳しい仕事を続けていけるわけがない。その恍惚感がまた次の作業の原動力となり、作家であり続けるために、自然と自らに常人の感覚から外れた習慣や義務を課することになる。作家という職業がもたらした特殊な習慣や傾向、それを、「作家という病」と名づけてみよう。作家であることの「業」と呼んでもいい。

割と赤裸々に迷惑をかけられた話だとか、私情の部分にまで立ち入っているのだが(女性関係とか)、取り上げられている作家は本書出版時点で全員亡くなっている方なので、少なくとも本人が怒鳴りこんでくることはない。まだ今よりも「文壇」みたいな独特な世界観が成立していた時代の話も多く、今読むとなんだかファンタジックな感すらあるのだけど、「こんなエピソードは、本人が生きてたらまあ明かせないだろうなあ」みたいなものも多く、下世話だが面白く思ってしまう。

作家の病とはいっても、実際には他のどんな職業であっても○○の病はあるのであろう。本書でも、著者自身のエピソードとして、妻を失った作家へとその件をエッセイにしてくれないかと頼みたかったが、さすがに配慮して一週間寝かしておいたら別の編集に依頼されてしまったことをあげ「編集者の病」としている。その職業における特別な「こだわり」とでもいうべきものがあるからこそ、人からはなにか病的な、異常なものとして表出してしまうのかもしれない。

面白いのは、21人もの作家がいるが全員亡くなっているので、その死に様まで含めて「完結した人生」としての論になっているところだ。女遊びを繰り返した挙句最後は妻の元で亡くなった渡辺淳一。目が見えなくなる予兆を感じ、「断筆し、住まいも引き払い、社会生活を終了します。」と手紙に書いてまったくその足取りを誰にも辿らせないまま忽然と消えてみせた多島斗志之。記者として、作家として、そして映画監督としてと三足の草鞋をはきながらがむしゃらに働いていたが突如心筋梗塞で亡くなってしまった伴野朗など、まるで短い伝記のように、様々な人生を追体験していくことができる。

めくるめく文壇ワールド

最初の方でちょっと書いたけれども、「文壇」世界観がまだ色濃く残っている時代の話が多く、たとえば芥川賞・直木賞のような文学賞に並々ならぬ熱意をかける作家のエピソードなど今とは事情が違う部分なんじゃないかなあと思いながら読んでいた。

たとえば、直木賞や芥川賞をとるかとらぬかで生涯の収入が億単位で変わってくるなどという記述もあるが、今はもうそんなことないんじゃないかなあ。いやもちろん僕は内部情報(部数とか、印税率とか)を何も持っていないから、感覚的なものでしかないけれども。実際、又吉さん『火花』以外でここ2〜3年で芥川賞をとった作家と作品を言える人がどれぐらいいるだろうか。

 私は三十数年の文芸編集者としての立場から、直木賞に頭を焼かれてしまった小説家を何人も見てきた。担当編集者や編集長が二十人、三十人と会場に集まり、選考会の途中経過を聞き、選考会の結果を待つ雰囲気は特別なものがある。たいていは、落選となるのだが、その瞬間の作家の落胆ぶりは見ていられないほどであった。屈辱で顔を真っ赤にした候補者もいたし、酒肴をそのままにひとり去って行った候補作家もいた。それから、一、二年のうちに受賞に至る作家はいいが、一度見せられた餌を期待して、五年、十年と待ち続ける作家の姿は悲惨とさえ言えるかもしれない。

その場で感情をあらわにしてショックを受けるだけならまだマシで、そのまま書けなくなってしまったり、読者の評価といったことを完全に度外視して直木賞や芥川賞をとることだけを創作の目標としてしまうとまたなかなか面倒なことになってくる。賞の栄誉、名誉、権威に目が眩んで狂っていくのも、作家の病のうちの一つなのだろう。通常であれば「恥」に属するようなこの種のエピソードも、本書では赤裸々に語られていく。

この文壇ワールドの一例として含めてしまってもいいのかどうかちとわからないのだけど、推理作家である山村美紗さんのエピソードは常軌を逸していてなかなかいい。当時西村京太郎さんとコンビを組んで、二人の原稿を手にするには(どちらか片方ということはなく、セットだったようだ)幾つかの儀式を超えなくてはならなかったという。ホテルを使って大々的に行われる新年会、それから二人の誕生日の中間をとった8月に行われる誕生日会への出席がその儀式である。

でもその儀式で行われる福引大会は毎度総額1千万にもなろうかという豪華景品があったそうだから、なんていうか「文壇ワールド」というかこれはバブルエピソードなのかもしれない。他にも表紙に山村美紗の名前を他の作家と同じ扱いで入れたらなぜもっと扱いを大きくしないのかとキレられたエピソードなどわがままっぷりは枚挙にいとまがない。

作家評論的側面

僕は最初、そういった過去の作家とのかかわり合いの中でのエピソードを羅列していくだけの本なのかと思っていたのだが、編集として各作家と長い間行動を共にしたり、作品を継続的に読んできたからこそ可能な、その「人間そのもの」と「作品」を絡み合わせたような洞察の文章/評論になっている文章も多くあり、作家評論としての側面からも本書は評価され得るだろう。

たとえば都筑道夫さんが翻訳家であり編集者であり作家であり評論家であったことをさして『翻訳者として海外の作品で勉強した理屈から入るので、評論的構造になり、それをさらに、編集者としての眼から見直す。つまり、都筑は小説を書いていても、内部に翻訳者と評論家と編集者を住まわせているから、自然とクールで人工的な色調が文字面を覆う。』と論じている箇所などは「4つの顔を持つ」と言われる都筑道夫さんの顔を1つにまとまげてみせている。

終わりに

エピソード自体は10年以上前の物がほとんどだが、やはり人柄、人格的な部分からくる難しさは現代においても変わらず存在するものなのだろうと思う。面倒くさいことを言ってくる人もいれば、ビシッと仕事を完璧にこなしてくれる人もいるのだろう。遅筆で逃げる人もいれば素直に謝る人もいて、自分の扱いが特別視されていないことに怒ったり賞がとれないことに悩む作家もいるはずだ。

そうした一人一人を相手に、まったく異なる対応方法をとりながら踏み込んでいかなければいけないのだから編集の仕事も大変である。本書を読んでいてしきりと「ぼくにゃあ編集者はつとまらんなあ」と感心してしまった。本書はその困難な仕事を、人生の大半を費やしてやってきた校條剛さんだからこそ書ける骨太な作家伝記録になっている。