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基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ヒーローが持つ複雑さを複雑なまま描く──『超人幻想 神化三六年』

超人幻想 神化三六年 (ハヤカワ文庫 JA ア 6-2)

超人幻想 神化三六年 (ハヤカワ文庫 JA ア 6-2)

10月から「コンクリート・レボルディオ〜超人幻想〜」というアニメが始まるが、本書はその前日譚小説。書いたのはアニメの担当脚本家にして原案でもある會川昇さんだ。これまでの経歴作品や小説作品からいっても何の不安も持っていなかったが、読み始めたら複雑な舞台背景を持ってきた上で、見事にシンプルな形に落とし込んでいて微塵もアニメを見る気がなかったのにそうもいってられなくなってしまった。

この小説版はアニメの原作でもなければノベライズでもないが、世界観は同一となる。アニメの方は「これまで存在してきた数々の「超人達」がもしすべて実在しているのだとしたら──」という仮定の元構築された「神化」という架空の戦後20年(神化40年)の復興にわく時代(現実の歴史でいうところの違った歴史を歩んだ昭和)を舞台にして行われる「人間を超えた能力を持つ者が入り乱れるバトルロワイヤル」的な作品のようだ*1

ヒーロー達が入り乱れる話だったら海外のアメコミなんかに目を向けずとも、日本でもタイガー&バニーなどいろいろあるんじゃないのと思うかもしれないが本作が異なっているのはこの日本に溢れかえってきた超人、ヒーロー達をさまざまな形で「現出」させ、それがもし本当に存在していたら──という「現実を虚構化する」手段をとったところにある。多少ややこしいので著者の言葉を借りると

中でも私は『マーブルズ』の「アメコミの中で起きた事件を、その発表年代に実際に起きた歴史的事件として描く」という手法や、『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』の「文学等の虚構のキャラクターを全て実在のものとして描く」というやり方などを知り、それらをよりハイブリッドさせることで自分が以前から考えていた超人達の物語を描くことができるのではないか、と考えるようになっていったのです。

「統一された企画」のもとデザインが整理されたヒーロー物ではなく、歴史が生み出した偶発的な要素を取り入れたごった煮の「超人物語」。もはや「懐かしさ」からも離れようとしている昭和の空気、事件、当時のエンターテイメント業界を盛り上げてきたウルトラマンや怪獣、妖怪、ヤッターマンや月光仮面などの各種ヒーロー達。

『自分たちの子ども時代の体験を虚構化する*2というメタメタしい構造を持ったヒーロー物であると同時に、ヒーローが持つ幾つもの意味性を複合的に取り込んだうえで、話の骨格は「これぞヒーローの物語だ」というぐらいシンプルな形まで落とし込まれている(あくまでも本書の、という話ではあるが)。まあ、権利的な問題でヤッターマンや月光仮面や怪獣が出てくるわけではないんだけど。

世界背景で面白かったのが、この世界には確かにさまざまな能力を持つ「超人」がいて、戦争に投入されたり町中で問題を起こしたりもするのだけど基本的には「大っぴらに語ってはならない」存在であるところ。『綺能秘密法』という、個人情報保護の観点から超人保護を謳う法律によって報道は規制され、多くの人々は「超人はいるんだろうなあ」と思いながらも実際に目にすることはほとんどない。我々の世界よりもちょっと現実味はあるけれど、基本は都市伝説じみた位置を占めているのだ。

簡単なあらすじとか、ジャンルとか

何より、この設定が物語上有効に機能していくのが良い。

物語の主人公は「忍びの時丸」という、一日に三回、一分間だけ時を戻すことのできる「超人」を主人公とした生放送人形劇の脚本家兼ディレクター木更嘉津馬だ。神化36年、戦後16年が経ち復興も進み、テレビ視聴者が増え超人の記憶がだんだんと薄れていく中、彼は超人の物語を紡ぎ続けている。

いつものように生放送を始めようとしたところ、言葉を喋る謎の獣が乱入し、スタッフを惨殺。木更嘉津馬もあっさり殺されてしまうがふと気が付くと40分程時間が巻き戻った同現場にいて──。先ほどと同じ会話が繰り返され、今度は惨劇を回避する為にスタッフを外に出し、当座の惨劇は回避される。問題は、これは本当に時が戻ったのか、はたまたただの白昼夢なのか。時が戻ったのだとして、戻したのは木更嘉津馬なのか、そうだとしたら彼は「超人」なのだろうか──。

「超人」が都市伝説じみたものだからこそ、「自分自身が超人なのか?」という問いかけが生まれ得る。物語はこの後何度もタイムスリップを繰り返し、次第に歴史改変SF地味た規模の物語へと発達していくが、実は本書は最初、物語の前半部がミステリマガジンにて連載されていたんだよね。故に「いったいこの状況を引き起こしているのは誰なのか」という謎解きの部分もあり、同時に歴史改変SFの要素も投入されて、メタヒーロー物にしてミステリにしてSFとごった煮感の凄い代物に仕上がっているが、先に書いたとおり骨格はシンプルで複雑さは感じさせない。

負けたくない

本書のメタメタしい構造は幾つもの層に及んでいるが、一つには木更嘉津馬が超人が活躍する人形劇の脚本を書き、さらには自分自身がかつて憧れた「超人」になりたいと考えている人間の一人だというところにある。テレビマンにして超人に憧れた男。

『遠くにいる超人であってもテレビならそこにいるように映し出すことができる。そしてその素晴らしい存在に自分はなれないとしても、それに憧れる気持ちだけでも人を前向きにしたり、良い方向へと導くことができるんじゃないか。それが嘉津馬がテレビを一生の仕事に選んだ理由だった。』と語るような気持ちがどこかしら會川昇さんにシンクロしているように思えてしまう。

これは「実際に本人がどうか」という話をしているのではなく、「そう読めてしまう/読めるように書かれている」といっている。たとえば本書は冒頭から小説形式ではなく、木更嘉津馬が書く「忍びの時丸」の台本形式で始まる。これはやはり本業が脚本家である會川昇さんを意識しないわけにはいかない。

作中何度も「負けたくない」とフレーズが繰り返されるが、それは「<超人>について描かれたマンガや小説やドラマが普通の人の目に触れ、人気を得るようになるまでは戦わなければならない」とする木更嘉津馬の決意であり、二十年近くこの企画を出しては潰されを繰り返してきたという會川昇さんの決意に重ねてしまう。

実際には、これは會川昇さん個人というより、「かつての超人達にあこがれて」、「それでも超人になれなかった」あるいは、今まさにその夢を見続けているすべての人へ向けた物語なのだろう。『神話の力』の中で、神話の専門家であるジョーゼフ・キャンベルは英雄の旅の本質について次のように語っている。『理性を否定するのが目的ではない。それどころか、英雄は暗い情念を克服することによって、理不尽な内なる野蛮性を克服できるという人間の能力を象徴しているんだ』英雄とは「弱さを持たない強きもの」ではなく、「弱さを乗り越えていく人間の能力の象徴」なのだ。

本書は、空想と現実が入り混じり幾人もの超人が戦争に駆り立てられ、スポーツで競い合い、大衆のイメージにコントロールされ、正義を体現するものだけではなくなった状況をメタ的に描きながらも、その英雄のもっとも本質的な部分を捉えている。

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

神話の力 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

*1:詳しくは公式サイトを見よ⇛http://concreterevolutio.com/introduction/index.html

*2:本書あとがきから