基本読書

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1Q84と牛河

1Q84〈BOOK3〉10月‐12月〈前編〉 (新潮文庫)

1Q84〈BOOK3〉10月‐12月〈前編〉 (新潮文庫)

1Q84〈BOOK3〉10月‐12月〈後編〉 (新潮文庫)

1Q84〈BOOK3〉10月‐12月〈後編〉 (新潮文庫)

特に理由なく村上春樹さんの長篇作品を全部読み返していたんだけど、一番好きな作品は1Q84だなあと思った。一番長い作品ということもあるが、要素が複合的にからみあって、強い違和感を感じさせない。作中で起こる不可思議な出来事、象徴的な出来事もどれも魅力的ですぐに惹きつけられる。何しろファースト・シーンが渋滞した高速道路の非常用階段をタクシーの運転手にそそのかされて降りるシーンからはじまるのだ。『見かけにだまされないように。現実というのはつねにひとつきりです。』

そして、降りていくのは社会の為に敵となる存在を消す凄腕の女暗殺者であるというあまりにも漫画的な展開。彼女が狙うのは幼い女性への様々な虐待を行っている謎の宗教団体、そのボスで──。この女の異常なキャラクター性からすれば、もうひとりの主人公格、単なる数学の塾講師、作家志望だが芽がでない男はキャラが薄いが彼は彼で異常な事態へと巻き込まれていく。

何より僕が好きなのは牛河というキャラクタで、教団から仕事を請け負う個人調査員といった役割ながら第三部にいたってはついに視点として語られるようになる。ずっと青豆、天吾のサイドからしか語られてこなかった物語が、一転二人をなんとかして追い詰めなければ自分がマズイことになる牛河の視点が追加されるのだ。青豆、天吾からすればこの男は脅威で、驚異的な粘り強さと勘の良さで二人のつながりを突き止め、彼が探し求める青豆の居場所のすぐちかくにまで肉薄してみせる。

この男の何よりもリアリスティックな視点が僕は好きだ。起こったことを起こったことと認め、物事をそこから逆算して考える。たとえそこで起こったことがあまりにもありえないことだったとしても。有能なのに見た目が醜いばかりに、多くの人間にうとまれ、信用されず、何らかのコミュニティの一員として迎え入れられることはない。また彼の性向自体も一匹狼のそれであり、群れになじまない。生まれながらにしてろくでもない人生が約束されているような男。それでもことさらに悲嘆するわけでもなく、ひたすらに自分の役割、仕事を丁寧に丁寧に遂行してみせる。

敵としての牛河の魅力は何よりもその「ふつうさ」にあるのだと思う。超常現象が跋扈するこの世界において、彼はあくまでも人間が人間らしく仕事を遂行しているようにみえる。教団の首領、青豆に仕事を依頼する金持ちの女性、金持ちの女性のボディガードにして殺しから脅しまでなんでもやる男、異常なキャラクタがいくらでもいるなか、彼は醜くも有能なただの男だ。それでも執念深く青豆に肉薄し、彼は「ふつう」の領域から天吾と青豆、二人の「主人公」が共有している秘密──二つの月を発見するにいたってみせる。「世界を切り替えて」みせたわけだ。ただの手際の良さと執念によって。

 やがて、牛河は息を呑んだ。そのまましばらく呼吸することさえ忘れてしまった。雲が切れたとき、そのいつもの月から離れたところに、もうひとつの月が浮かんでいることに気づいたからだ。それは昔ながらの月よりはずっと小さく、苔が生えたような緑色で、かたちはいびつだった。でも間違いなく月だ。そんな大きな星はどこにも存在しない。人工衛星でもない。それはひとつの場所にじっと留まっている。
 牛河はいったん目を閉じ、数秒間を置いて再び目を開けた。何かの錯覚に違いない。そんなものがそこにあるわけがないのだ。しかし何度目を閉じてまた目を開いても、新しい小振りな月はやはりそこに浮かんでいた。雲がやってくるとその背後に隠されたが、通り過ぎるとまた同じ場所に現れた。
 これが天吾が眺めていたものなのだ、と牛河は思った。

牛河が月が二つあることを認め、自分がいた世界が決定的に変質してしまったことに気がつくこの一瞬がこの作品を通して二番目に好きだ。なぜかはわからない、しかし世界は変わってしまっている。月が二つある世界は自分が今までいた世界ではありえないのだと。その衝撃は並大抵のものではないが、その一瞬の認識の切り替わりのタイミング、驚きを見事に表現しているように思う。牛河は到底主人公になりえない男でありながらも、主人公らが共有している秘密に有能さでもって踏み込んだのだ。

 牛河は自分をリアリスティックな人間だと見なしていた、そして実際に彼はリアリスティックな人間だった。形而上的な思弁は彼の求めるところではない。もしそこに実際に何かが存在しているのなら、理屈がとおっていてもいなくても、論理が通用してもしなくても、それをひとまず現実として受け入れていくしかない。それが彼の基本的な考え方だ。原則や論理があって現実が生まれるのではなく、まず現実があり、あとからそれに合わせて原則や論理が生まれるのだ。だから空に二つの月が並んで浮かんでいることを、とりあえず事実としてそのまま受け入れるしかあるまいと牛河は心を決めた。
 あとのことはあとになってゆっくり考えればいい。余計な思いは抱かないように努めながら、牛川はただ無心にその二つの月を眺め、観察した。大きな黄色い月と、小さな緑のいびつな月。彼はその光景に自分を馴染ませようとした。こいつをそのまま受け入れるんだ、と彼は自分に言い聞かせた。なぜこんなことが起こり得るのか、説明はつかない。しかし今のところそれは深く追求するべき問題じゃない。この状況にどうやって対応していくか、あくまでそいつが問題なのだ。それにはまずこの光景を丸ごと理屈抜きで受け入れるしかない。話はそこから始まる。

異常な世界であることをじっくりと受け入れていく。自分の頭がおかしくなったのかもしれないし、逆にそれは本当にそこにあるのかもしれない。本当にそこにあるとしたら、それはあるものとして扱われなければならない、たとえそれがどれだけありえなさそうに思えるものだったとしても。じわじわとしみこんでいくようなこの現実感覚の変容はとてもSF的だと思うわけである。

これは「二番目に」好きなシーンだといったが、一番好きなのはこの牛河が青豆のボディガードにその存在を認識され、あっけなく拷問され情報を明け渡しさくっと殺されてしまうところだ。ふとした瞬間に意識をおとされ、そのまま手足をしばられ、拷問を受け、ビニール袋を頭にかぶせられてそのまま秘密を葬り去るために窒息死させられる。無残にも、苦しみながら、飼っていた犬のことを思い出しながらただ死ぬ。

自分でもこのシーンがなんで好きなのかはよくわからないが、1Q84を読み返すときに(それは大抵眠れない夜だったりするが)必ずこのシーンは読み返す。有能な男であっても、完璧ではない。痕跡は残すし、彼の他に有能な人間もいる。微妙なボタンの掛け違いが重なって、呆気無くゴミのように死んでいくのだと。「なぜ、おれが」という一瞬の驚き。人間、死ぬときはそんなもんだよなと思う。思いもがけない存在に遭遇し、わけもわからず情報をはかされ、苦しみながら死んでいく。

意識がぷっつんと途切れて、牛河が自分でも理解できないまま自分になつかなかった犬のことを思いだして死んでいくシーンを読むと、なんとなく「さあ、寝ようかな」というようなノリで、「さあ、生きようかな」と思うのだ。

「悼んでやったほうがいい。それなりに有能な男だった」
「でも十分にではなかった。そういうことですね?」
「永遠に生きられるほど有能な人間はどこにもいない」
「あなたはそう考える」と相手は言った。
「もちろん」とタマルは言った。「俺はそう考える。あんたはそう考えないのか?」