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史上最悪の悪党になった男──『エンジェルメイカー』

エンジェルメイカー (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

エンジェルメイカー (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

文字を読んでいてここまでの興奮が押し寄せることがあるのかという純粋な驚き。「面白さ」と、そう物語を評するときに人はいう。だが実際には「面白さ」にはさまざまなベクトルがあって100メートル走のように勝った負けたと厳格な判定がくだせるものではない。物語の面白さにビデオ判定は存在しない。だから少なくともここでいえるのは「興奮」に限ったものになるが、間違いなく今年ベストの一品だ。

700ページに渡って物語られていくのは、針の振りきれたキャラクタ達──誰もが自分なりの信念と理念でもってそれを実行することに躊躇わない。宇宙を含めて世界を終わらせようとする男、愛犬と一緒に世界を変えようとする女、自分の信じる道を探求して世界を一変させたマッド・サイエンティスト、希代のギャング、そしてその息子にして狡猾でも周到でもないジョー──。本書は、まだ何者でもないただの男であるジョーが、史上最悪の悪党に”覚醒”しその道を駆け出して行くまでの物語である。

物語の構造は非常にシンプルなものだ。世界のコントロール権を得ることさえできるとある情報を持たされてしまったジョーが、その情報を持っているが故に追われ、狙われる。彼と同じく関与した友人はあっけなく殺され、彼個人の世界も、彼以外の客観的な世界のどちらもが変質してしまった後もジョーの持つ情報の重要性は失われるどころか、ましてゆくばかり。彼は逃げ惑っていく過程で様々な人間と出会い、家族の真実を知り、恋に落ち、自分自身を変質させていくのだ。

シンプルな枠組みながらも本書を異常な物としているのは、細部まで綿密に書き込まれた、情報に圧倒されるディティールだ。登場人物は誰もが必要なことなのか不必要なことなのかはともかくとしてマシンガンのように語り始め、キャラクタ群はどいつもこいつも覚悟・完了とばかりに自身の信念を持って突き進んでくる異常者ばかり。

登場人物の一人が東洋の武道を学び始めたかと思えば攻撃回避防御の一挙手一投足まで書き込まれた格闘シーンが続き、常識的にいえば悪役としか表現できない人物が正義を祈って世界を決定的に変質させることを決意するに至る長い長い回想シーンがあれば、スパイが訓練を積んで暗躍するシーンもあり、そこに関わった人々の痴情のもつれまで書き込んで、世界を変質させる理屈はSFならではの広がりを持っている。

アクション、スパイ、SF、ミステリ、何よりギャング物と様々な軸を投入しながら、どれ一つとして「均す」ことなく全力でアクセルを踏み込んでいくのだから短く収まるはずがない。2段組で700ページを超える本書は「こんな分厚いの読めるのか」と震え、手をだすまでが億劫だったが読み始めてしまえば止まらない。

針の振りきれたキャラクタ陣

冒頭のシークエンスからして登場人物らの針が常識で考えられる範囲からかなり逸脱していることが明かされる。物語はジョーが履いているゴルフ用の靴下の来歴から始まるが、それは彼の父親である希代のギャングにしてあたり一帯のドンであるマシューが輸送トラックをトンプソン・マシンガンで脅して手に入れたものなのだ。靴下さえも真っ当には買わずにトラックを襲う男。一般的な観念からいえば法を破り人に害をなす悪そのもの。それがジョーの親父だ。

実を言えばこんな異常者はまだまだ序の口だ。物語は、ジョー側の視点と同時にイーディと呼ばれる90歳の元凄腕スパイばばあの視点からも語られていくのだが、このばばあがまた属性のてんこ盛り。かつては凄腕のスパイ、現在の職業は"革命家"で、盲目の相棒犬バスチョンと共に世界と戦うことを決意する。物語冒頭で活動の再開を決意する時の文章はこれでもかというレベルで盛り上げてくる。

 その決意とともに、喜びがわいてきた。は。は! さあ、おまえたちはみんな目をそむけているがいい。薔薇色ほっぺの乙女みたいなへなちょこ野郎ども。バニスターが復帰するよ! 今度はあたし自身がイニシアティブをとるからね!
 バスチョンがイーディを見あげ、ぐらつきながらゆっくりと起きあがった。イーディに背を向け、獰猛な唸りを発する。それから首をめぐらして、女主人からの是認の言葉を待った。
「ああ、そうだよ」とイーディが言った。「あたしとおまえで世界と戦うんだ」

は。は! この異常なテンション! だがこれがこの物語における「基本リズム」であることは頭に入れておいてもらいたい。物語は最初から最後までこのままフルスロットルをかけていくのだ。男性陣も全員イカれてて魅力的なのだが、特に女性陣は全てのキャラクタが"女傑"──自分で自分の運命を選び、切り開いていける者である。

たとえば特に魅力的な"女傑"にヒロインであるポリーが存在する。物語の冒頭、ジョーは優柔不断な男だ。ノーウェアマン、どこにも居場所はないし、何者でもない男。ライトノベル的にいえば、鈍感系主人公だ。自分に好意をよせてくれる女の子に気づかないフリをし、いいなと思う女の子をうまい具合に誘えない。

そんな彼に向かって、ポリーは初めてふたりきりになったときに『これからプランを説明する』『それじゃ……提案したいのはこれからセックスすること』なのとぶちあげてみせる。もっとお互いをよくしってから……とどもるジョーに対して、まったく一歩も引かずに理路整然とイカれた理屈を展開してみせる。

「わたしのプランどおりに行動して、もし目が覚めてわたしたちがお互いを好きでいなくなっていても、ふたりがすばらしいセックスをしたという事実は残る。それに対してあなたの言うやり方でいくと、セックスしたいときにしないで、いまもしないし、あとでもしないという選択をすることになるかもしれない。かりにあとでセックスすると決めた場合でも、一回分のセックスの機会を逃すことになる。」

『あなたのプランはとても悪いプランよ。さらに言うと、あなたはそれがとても悪いプランであることを知っている。』もちろんここだけ読むと完全にイカれたただのビッチだが、いちおう物語的な筋はついているのでご安心を。ただただこの時は台詞の圧力におされてしまって違和感を覚えるよりも笑いがこみあげてくるのだが。

夢が詰まった700ページ

本記事では多くは語らないが序盤で明かされる存在に、<理論機関>なる第二次世界大戦直後に開発された最終兵器が存在している。それは世界を根底から変質させ、混乱に陥れるものでレベルが進む毎に混乱は増し、死者は全世界規模へと拡大していく。この理論的な裏付けとそれがもたらす結果、派生していくヴィジョンはSFジャンルに分類しても遜色ないもので、ハヤカワ・ポケット・ミステリから出ているからといってミステリファン以外がスルーしたら勿体無い! 

その思想を推し進める一人の科学者──これもまた信念を持った"女傑"だ──の活動が、イーディの回想によって淡々と描かれていくのだが、『世界は変わらなければならない。わたしたちは変わらなければならない。わたしは変えるつもりです。』という静かな、しかし力強い宣言はこの異常者だらけの世界だからこそ映える。

世界を変質させる最終兵器、それに準じるマッド・サイエンティスト、それに深く関わっていく凄腕のスパイ、しかも東洋の武道を身につけ"山嵐"とかを敵に極めまくっていくの、完全に大好きだから──! 武道関連の日本描写もちまちまといい味をついており、これは著者であるニック・ハーカウェイの趣味でもあるのだろう(前作長篇にの『世界が終わってしまったあとの世界で』でも類似の描写がある)。

まとめ

世界を変えようとするヴィランが、世界を混乱から救おうと悪逆非道な手段をとりはじめる政府が、神になって宇宙丸ごと世界を殺そうとした男が、その全てへと抵抗しようとした"ノーウェアマン"ジョーが、ボロボロになりながらも覚醒の時を迎え、「真のギャング」として立ち向かっていくその時──この物語の様々なポイントで各登場人物の「クライマックス」が立ち現われ、無数の点は線となりジョーの物語へと帰結していく。

 この街はおれのものだ。世界はおれのものだ。統治はほかの者たちに任せてある。おれにはほかに大事な仕事があるからだ。

全てが総決算へと向かうクライマックスに至って叫び声をあげずにいられないほどの興奮はここ近年味わったことがないレベルのものだ。ここにはエンターテイメントの粋が凝縮されている。700ページあるからといって臆することはない、幾つもの物語が相乗効果を伴って収められているのだから。本書を読むことはきっと大切な経験になるだろう。人生にはこんな興奮がありえるのだと気がつくことになるのだから。huyukiitoichi.hatenadiary.jp