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THE GHOST IN MY BRAIN──『脳はすごい -ある人工知能研究者の脳損傷体験記-』

脳はすごい -ある人工知能研究者の脳損傷体験記-

脳はすごい -ある人工知能研究者の脳損傷体験記-

書名にあるように、元々IQの高い人工知能研究者であるクラーク・エリオットが交通事故によって脳震盪を起こし脳機能にダメージを受け、「自分が人間だとは信じられない」状態にまで陥ったのち、そこから回復していく過程を辿った一冊である。

本書の半分近くは、その脳震盪が起こってからの生活がどのようなもので、彼がそれにどのように対処してきたのかが語られるが、これが「脳震盪つっても、プロスポーツ選手がよくぶつかったりしてなるあれでしょ?」というレベルとは想像もつかないツラさだ。ドアを通り抜ける、階段を降りる、そんな簡単なことが難しくなる。時間感覚がなくなり、自分が人間ではないという奇妙な感覚にとらわれ、マルチタスクが不可能になり、と絶望的な事象だがこれでも障害の一部でしかない。

THE GHOST IN MY BRAIN*1

脳震盪症は選択をすることが困難になる、マルチタスクがまるで不可能になるなどさまざまな状況をもたらすが、そのうちの一つに「自分はもはや人間ではない」という感覚があるのだという。心と身体が別のものだと主張したデカルトに対して、本書では心と身体は密接に関連しあっていると主張し、揶揄にとどまらない「人間性の回復」が脳機能の改善によってもたらされた事実を提示する。

 「自分はもはや人間ではない」という、より包括的な感覚を引き起こす。確かに私たち脳震盪症者は、外からは健常者と同じように見え、同じように話す。周囲の人々は、違いにそれほど気づかない。私たちは頭が弱いわけではないし、個性も失ってはいない。しかし内面は、理由は不明ながら大きく変わっている。奇妙なことに、かつての自分は、今はいない。この感覚は、これまで私が会った脳震盪症者のあいだではごく一般的なもので、「追放者の世界へようこそ。非人間が暮らす地へようこそ」というジョークが広まっているほどだ。

いったん失われたGHOSTが、認知の治療を受け始めたことによって『影が帰還するのを感じた。私の古い自己、どうしてももう一度取り戻したかった自己の影が戻ってきたのだ。』とする帰還への過程は単なる病気の回復過程にとどまらず、人間性についての物語となっている。脳が決定的に損傷を受けてしまえば、場合によっては私が人間であるという感覚は失われてしまうのである。

この症状の恐ろしいところは、日常的な生活を送っているフリをすることはなんとかなってしまう場合があり、正確に診断されない可能性さえあることだ。著者も幾つもの病院にいけども、「問題ありませんよ」と帰されてしまう。ドアを開けて目的地へとたどり着くことさえ困難な人間が、である。しかも保険は適用されない。彼の悲劇もあれば喜劇的でもあり、ハッピーエンドで終わる体験記は同じく理解されない同病の人々に対する強い励まし、理解者であり先導者たらんとする共闘の意図を感じる。

ただ、著者の場合は大学教授であるので「一般的な脳震盪症者」の範疇には入らないはずで、「日常的な生活を送っているフリ」をすることは困難なはずなのだが持ち前の知能と人工知能研究者としての経験と知識によってなんとかしてしまっているところが凄い(が、一般人にそのまま適用することは不可能だろう)。

本書における面白さの一つの側面は、この人工知能研究者ならではの損傷した自己に対する冷静な観察・分析の記録でもある。

自己に対する冷静な観察・分析の記録

たとえば、コンピュータ用語でいうところの「デーモン(バックグラウンドで動作しているプログラムを意味するもの)」を人間の認知機能に当てはめて、脳震盪症者の苦境を説明してみせる。我々の脳でいえば、運転をしながら息子の受験について考えているように複数のことがバックグラウンドで進行していく。当然脳の資源には限りがあるから、その複数実行が多数になれば手一杯になり全体が崩壊してしまったりということもあり得る。だが、自動的にそれらは進行するものだ。

脳震盪症者では、適切であろうが不適切であろうがデーモンが絶えず起動され、些細な意味にむやみにこだわる状況に置かれると著者は語る。何かをしようとしているときにうまくいかない、作業のやり方を知っているにもかかわらずその知識にアクセスできないジレンマ状態にある時、罪悪感デーモンがバックグラウンドで立ち上がり自分を責め、さらにその状況が「仕方がないものなのだ」と自分自身を理解させることさえもできず、体力まですり減っていく。話を聞くだけで地獄のような状況である。

だが、回復する

本書の後半部は、「だが、それでも回復する」という著者の実体験である。ゼリンスキーという彼の状態へ理解を示し、回復方法を示す医師との出会いによって著者の症状は劇的に改善し、最終的にはほぼ元通りと自身をしていわしめる状況までもっていくことが可能になった。もちろん、事故の損傷の具合、箇所などによって治療方法は一人一人全く異なるのはいうまでもないけれどもその回復手法が実に面白い。

一つは症状に合わせた各種パズルである。注意力に難があり、ルールに従えない場合は、ルールに従うことを学習できるようにする、特定の認知機構を刺激するきまりきった課題をこなすことで認知能力の向上が(著者の場合は)認められるようになった。これ一つとっても脳の可塑性はすごい! 脳はすごい! といいたくなるところではあるが、この治療はそれだけで終わらない。

二つ目は視覚システムを用いた治療で、これは網膜のさまざまな部位を活性化することで、『視覚信号が網膜から視覚皮質に伝達される際に経由する視放線の経路、および視放線の手前で視神経から分岐する、非イメージ網膜信号が経由する経路を変えられる』という考えを採用したものだ。そこに加えて投射される網膜の部位、光の周波数を変える、遮眼フィルターを使うことで網膜への光の当たり方を調節し、『視空間信号が損傷を受けた経路を迂回して伝わるよう調節できる。』

どういうことかといえば、各種問題が脳の損傷によって起きているというのであれば──損傷していない部分で別途経路を構築させてやればいいじゃないかとでもいわんばかりのやり口である。実際スゴイ。数年にわたってもはや治ることはないと医者らから言われていた症状が、このような治療方法をいくつも受けていくことで、劇的に改善していく体験をすることになる。ここで紹介したのはその治療(と、脳損傷体験記)のごく一部であるが、一冊読めば「脳の可塑性ってすげー」と感動すると思う。

同時に、脳が損なわれることで当たり前だと思っている時間間隔や「選択をする」ことなどがいかに複雑な過程の元に成り立っているのかも理解できるだろう。いろいろな意味で脳の凄さを体験できる一冊である。たまたまだけれども、同時期に出ている同訳者高橋洋さんの『意識と脳』も大変おもしろかったのでおすすめ。honz.jp

意識と脳――思考はいかにコード化されるか

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*1:原題にあたる。かつてデカルトの心と身体は別物であるとした心身二元論に対する当て付けとしての言い回し「機械の中の幽霊」を意識してつけられたもの