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音楽は、いったいどこまでいけるのだろうか?──『アメリカ最後の実験』

アメリカ最後の実験

アメリカ最後の実験

『アメリカ最後の実験』というオドロオドロしい書名だけみると「核実験か何かだろうか?」と思ってしまうが、中身は疾走感のある音楽小説だ。音楽とは何か、音楽ではいったいなにが、どこまでのことができるのかと追求を続けるイカれた音楽家たちが幾人も出てきて、己の能力をかけてぶつかり合う≒どこまで自分にできるのかと挑戦を続ける、いってみれば音楽バトル小説とでもいう感じだ。

著者の宮内悠介さんはこれまでの作品群で『盤上の夜』、『ヨハネスブルグの天使たち』、『エクソダス症候群』と扱う題材をボードゲームから精神医学まで多様に取り揃えながらも基本的には「SFを書く人」と認識されてきたように思うが、本書はいかようにでも読める。少なくとも、〈パンドラ〉と呼ばれる本物のピアノでは決して出せないと言われる特殊な音程であるブルーノートを出せるシンセサイザーがあったり、音楽が人間の意識にどのように作用するのか、音楽が持つ機能を追求していく過程はSFといってもいいものだ。物語の背景で起こっていることも実に大きい。

簡単なあらすじとか

まあ、小説として明確におもしろいのだから、SFかどうかなんてどうでもいいことではある。物語は、脩という一人の青年が、日本人でありながら、アメリカ西海岸まで失踪したピアニストの父親を探して難関といわれる〈グレッグ音楽院〉の受験を受けにやってくるところからはじまる。父親は〈グレッグ音楽院〉を受験し、合格したとだけ知らせて行方をくらましたからだ。

グレッグ音楽院の受験は難関というだけあってそう試験は無茶苦茶なものばかり。一次試験ははじめて訪れたバーで、「ホンキートンク」を弾くことになったらという架空のシチュエーションを設定され、特殊な調整が施されたピアノを弾かされる。それをなんとか突破したかとおもいきや、二次試験は一変、二人が二台の楽器を使い四小節ごとに曲を演奏しつなげ、どちらかが蹴落とされるという音楽バトル形式になってしまう。曲として成立していないとみなされれば、両者ともに不合格とみなされるために相手への妨害だけでなく協調もしなければならない。

脩は父親を探しにきたとはいえ、わざわざ受験をしているように音楽をゲームとして追求する音楽バカであり、彼と同じく試験を受けに来る仲間たちはみな音楽家としてどこかネジが飛んでしまっているような色物揃いだ。脩の仲間の一人はためらいもなく『──自分はきっとピアノの前で死ぬだろう。』と認識しているキチガイだし二次試験で脩と共闘することになるリロイは演奏一つで客の欲望や行動をコントロールすることこそが音楽というものだと豪語するキャラクターだ。それは音楽の一つの側面としてたしかに存在するが、果たして音楽とは本当にそれだけなのだろうか?

アメリカ最後の実験

「アメリカ最後の実験」というのは、こうした音楽バトル的なプロットと同時に進行する事件に関連している。まずグレッグ音楽院で一件の殺人事件が起こり、そこには「アメリカ最初の実験」とホワイトボードに描かれている。その写真が起爆剤となって、各地で「アメリカ第二の実験」「アメリカ第三の実験」と題された殺人事件が発生し、事態は拡大をたどる。アメリカ最後の実験とはこうした事件の終着点としてド派手にやってやろうぜと試みられる事件のことだ。

同時にアメリカというものが根源的にとらわれている「終わりない実験精神」の終着点としての「アメリカ最後の実験」が、壮大な背景と同時に描かれていく。果たして、「実験というものに終わりなどあるのだろうか?」「あるとすればそれはいったいどんな実験になるのだろうか?」という問いかけを追求していく過程にもまた深く音楽が関わっており、こっちは音楽バトルとはまた違った意味でエキサイティングなものだ。それをやるんだったら、たしかにアメリカでなくてはなるまい。

いったいどこまでいけるのだろうか?

それが小説を書くことであれ絵を書くことであれ音楽であれ料理であれコンビニの店長であれ何かを突き詰めてやろうとすれば、その時人は「それで自分は究極的には何ができるのか/どこまでいけるのか」を考えるものなのではないだろうかと思う。

自分を例に出せば、一つの記事を書く時に、それで究極的にはどこまでのことが可能なのかをよく考える。読んだ瞬間に人間を発狂させることが可能なのか。本について書いた記事であれば、読んだ瞬間にいてもたってもいられずに本屋へ走り出す/電子書店でクリックさせることは可能なのか。何度も何度も読み返し、心の支えにするような文章を書くことはできるのか。

CM音楽やらアニメ系の楽曲やらと幅広く活躍する菅野よう子さんのインタビューでよく思い返す印象的な一節がある。『マクロスプラス』というアニメの音楽をつくる時に、「歌や音楽を洗脳兵器として扱うヴァーチャル・アイドル」が出てきたので「よっし! みんなを洗脳しちゃうぜー!」といって洗脳ソングを作ったという話の流れで出てきたやりとりである。本書の音楽家たちと重なり合う部分も多い。
www.redbullmusicacademy.jp

本当に昏倒や催眠状態を促すようなビートと音響の曲が多くて。

今思えば、やりすぎちゃいましたけどね(苦笑)。あの当時はまだ加減というものをしらなかったので、本当に聴いた人を昏倒させたり催眠状態にしようと思って、「兵器としての音楽を作りたい」と思って作ってしまったので。音楽の持つ強い影響力というものをすごく感じたのは、実際に「あの曲を聴いて空軍に入り、イラク戦争に行ってきました」という人とか、「シャロン・アップルの曲で自殺を考えた」とか、そういう感想をもらったときです。初めて、音響や音像に人を変える力があると気が付いて、怖さを感じましたね。

本書に出てくる音楽家も、先に書いたようにネジのとんだ人間であり、みなさまざまな思いと思想、これまでの人生を賭けて音楽の可能性を追求してみせる。『──ぼくは、ぼくの想像を超えるものを見てみたい。』 『自分の賢しさごときを打ち砕く現実が、この世界に存在しなくていいのか。世界とはもっと色鮮やかで、酷薄で、一筋縄ではいかないものではなかったのか。』 『音楽には、世界を変える力があると。政治や社会をではない。世界のなりたち、それ自体をだ。』

 音楽家であれば、誰だって一度は自らの音楽に人を救う力があるのか知りたいと思うものだ。そして、確かめてみたいと考え始める。

これはそんな、音楽の力を突き詰めようとした音楽家たちの物語だ。それはそのまま、そんな小説を書く側にもつきつけられている問いかけなのだろう。言葉で、どこまで「音楽」というものを表現しきることができるのか? 想像を超える音楽、世界を変えるような音楽、そんなものを果たして文章で表現できるんだろうか。

これは音楽家による「音楽バトル」でもあると同時に、それをいかにして表現するのか、どこまで表現できるのかという小説家自身のバトルでもある。ただ、それ自体は別に今回の題材に限ったものではないはずだ。音楽であれなんであれ、いつだって小説家は理想に近いものを表現するために苦闘しなければならないのだから。

本書では音楽の表現をさまざまな形(理論で、描写で、演出で、時に詩的に、時に直接的に。)行っていくが、そのどれもに、ぐっと惹きつけられる。それが果たしてどのような形で結実しているのかは、読んで確かめてみてもらいたい。