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作家・冲方丁による物語論/人生論──『偶然を生きる』

偶然を生きる (角川新書)

偶然を生きる (角川新書)

もうすぐ(3/24)マルドゥック・スクランブルをはじめとするシリーズ最新作『マルドゥック・アノニマス』の一巻が出るのでワクワクして待っていたところだったのだが、その前に新書が出ていた。いったいどんなものやら……と読んでみれば、人間はなぜ物語を求めるのかという物語論を主軸にした、人生論のようなものであった。たとえば5、6、7章はそれぞれ「日本人がもたらす物語」「リーダーの条件」「幸福を生きる」とそれぞれ日本人論、リーダー論、幸福論になっている。かなり雑多だ。

とはいえ『偶然を生きる』という書名には読む前から納得する部分があった。『マルドゥック・スクランブル』を筆頭に、冲方作品には偶然と必然が物語の中心に根を下ろしている。『たまたま起こった事柄の意味を探り、その事柄の反復をもくろみ、そして新たな、より「価値のある」事柄を起こそうとする。それが必然へと赴くということである。』とは『マルドゥック・スクランブル』旧版のあとがきの言葉だが、これは偶然によって死に瀕した悲劇の人生にたいして「なぜ、わたしなのか」と問いかけていく少女の物語なんだよね。

そのためエッセイ(人生論)でもそれが中心となるのは納得感がある。『偶然にはリアリティがあります。その偶然性を必然と感じること、感じさせることが、人間が行う物語づくりの根本になっているのです。』とは本書からの引用だが、物語のテーマ、中心だけでなくテクニックの部分でも偶然と必然は関わってきている。故に本書はいかにして人を引きこむのかという物語論であるともいえるし、物語に惹きつけられる仕組みを解剖していくことを通して人間(人生)を語る一冊でもある。

 物語づくりとは、そうした偶然のリアリティを差し替えたり、動かしたり、改変したりしていく作業だともいえます。人は誰でも偶然を生きている。その偶然を考えていくことは、物語の本質を突きつめていくことになるとともに、物語にあふれた世の中で、どう生きるべきか、本当の幸福を掴むにはどうするのがいいのか、といった道筋を探すことにもつながっていくのです。

4つの経験

本書では世界の捉え方を主に4つの経験に分類している。全体を通してこの概念が中心になるので説明しておこう。第1は「直接的な経験」で主に五感に相当する経験のこと。第2は「間接的な経験」で、社会的な経験ともいう。殆どの人は宇宙に行ったことがないが、伝聞や写真で宇宙から地球がどう見えるかを知っているように、さまざまな知識が伝達可能な状態で我々には伝えられるがそのことを指している。

第3は「神話的な経験」でようは神話で世界を理解する試みのこと。太陽が上る理由や月の満ち欠けを神様のせいにして納得してみたいろt、かつてはこの経験が世界を理解するために重要だったが、現代ではこの経験は失われつつある。第4は「人工的な経験」で、これはようは作り上げられたフィクションのことだ。たとえばある新製品を売り出す時に「これをこんなふうに使えばあなたの生活が一変しますよ!」というようなもの。基本的には物語などのフィクションもここに含まれそうな感じ。

多くのことが語られる本なので、これこれこういう本なのですとまとめるのは難しいのだが、この4つの経験を前提にしてみるといろいろなことがわかりやすくなる。

たとえば、「幸福」を考えるときにもこの経験を4つにわけるのはけっこう便利だ。幸福は第1の経験の範疇にあるものであって、第2の経験である社会的な経験に固執しすぎると第1の経験がぽっかりと欠落してしまう。だから本書では幸福に至る道のひとつは、第1の経験に立ち返るために、時に第2の経験から離れて──ようは、社会からいったん離れるなり目線を離すなりして「客観視」することによって、第1の経験である自分の感覚に立ち戻ることが重要なんだという話になる。

また、著者の本業である物語創作についてもこの4つの経験で説明すれば第2や第4の経験を第1の経験に直していく作業だとたとえられる。たとえたからなんだ、と思うかもしれないが、理屈を理解し事象をより細かく解剖していくことでより捉えやすくなる、応用範囲が広がるといった利点は大きい。

偶然と必然を区別するのは難しい

偶然に満ちたこの世界を人はどう生きるべきかを問いかけていく本書ではあるが、偶然と必然を区別するのは難しいものだ。偶然を必然と思い込んでしまうこともあれば、必然を偶然と思い込んでしまうこともある。本書にも「自分には歯医者は学力的に無理だ…」と諦めてしまった知人の話が紹介されているが、歯医者になる為の大学にはそこまで入るのが難しくない場所もあり、そうした知識がないと「知らないという偶然」が「歯医者にはなれないという必然」に変わってしまう。

世の中には変えることのできる物事と、変えられない物事がある。たとえば小説家になりたくて賞に応募するけど落ち続け、自分には才能がないんだ……と落ち込む。場合によっては書くことをやめてしまうかもしれない。しかし実際には作品は広く認められるだけの価値がありながらも、さまざまな偶然に左右されて落とされている……というのは無数にきく話だ(それも、後に成功した例だけだが)。「応募する先がまずい」のかもしれないし、たんに「運が悪い」のかもしれないし、本当に価値がないのかもしれない。ようするに、現実はそんなに見極めがつきやすくはできていない。

生まれた時代、生まれた時の遺伝子、家庭環境、人生のスタートからして偶然に左右されていて、我々はいつだって偶然を生きるしかない。いったいなにが変えられる物事で、何が変えられない物事なのかを教えてくれる神様は存在しないし、本書もその区別をつけてくれる一冊ではありえない。しかし少なくとも人生があらゆる偶然に満ちたものであることを教え、最低限の手ほどきを施してくれる一冊ではある。

おわりに

とまあ、冲方丁ファン以外が読んでもなかなかおもしろい本であると思う。度々『天地明察』などの時代小説が引き合いに出されたり、かつて挑戦していた文芸アシスタント制度についてなんで失敗したんだろう? と考察する部分などもあるのでファン的にも嬉しい。どちらにせよ冲方丁ファンは買うだろうが。

マルドゥック・スクランブル〈改訂新版〉

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