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望んでもいない才能を与えられた時、人はそれを拒むことはできるのか──『モッキンバードの娘たち』

モッキンバードの娘たち (海外文学セレクション)

モッキンバードの娘たち (海外文学セレクション)

とにかく冒頭からトップスピードで駆け抜けていく一冊で、読み始めてあっという間にこの物語のことが好きになってしまった。一言で表現すれば、これは未来視能力などを持った特殊な才能を持った家族の物語だ。それだけ聞くとさして特別な印象を受けないが、けっこう変てこな(ただし、普遍的な)物語である。

物語の語り手になるのは「未来を予言できるとか、心を読むことができるとか、軌跡を起こすことができるとか、はたまた死者を呼び覚ますことができる」母親を持つ長女トニ・ビーチャム、保険数理士だ。読み始めてすぐに驚くことになるのだが、この物語、そんな凄まじい能力を持った母親を埋葬する日からはじまるのだ。

 自分の母親が未来を予言できるとか、心を読むことができるとか、奇跡を起こすことができるとか、はたまた死者を呼び覚ますことができるなんて、あっさり割り切って考えられることじゃない。わたしはそのことで長いあいだママを恨んできた。ソフトボール・チームの仲間や高校のクラスメイトにそういう噂は本当なのかと訊かれれば、本当だと答えるしかなかった。そんなときは嫌でたまらなかった。本当なわけないじゃない、とか、ママはちょっと変わってるだけで、特殊な力なんてもっていないわ、と答えられればずっと気楽で、いろんな難を免れることもできただろう。ところが、わたしは強情で嫌みなくらいに正直な女の子だった。正面きって訊かれたら、うちのママは呪術使いで、ママを支配する小さな神々は本物だと認めるしかなかった。

ちと長い引用だが試し読みできる部分なので勘弁*1。普通そんな凄い能力者がいたら物語の中心に据えそうなものだが、この物語ではそんな母親は既に死んでいる。未来を予言できても、心を読むことができても、自身の身体に巣食った癌をどうにかすることはできなかったらしい。

能力を隠すわけでもなければ、おおっぴらにするでもなく、ただただ「才能」を憎々しげに語る引用部はそれだけでおもしろいが、本書全体に通底している部分でもある。母親の墓石に刻まれたのは『才能はときに拒むことのできないものである』というものだが、この言葉通りにトニ・ビーチャムは母の死後指示にしたがって特別な薬酒を飲むことで、母親の才能/贈り物(共にギフト)を受け取ってしまうのだから。ゆえに物語は必然的につぎのようなものになる。太字強調は本書ママ。

 才能はときに、拒むことのできないものである。
 わたしは断固として拒む。

望んでもいない才能を与えられた時、人はそれを拒むことはできるのか。

トニ・ビーチャにとっての才能(の象徴)とは言ってみれば生前の母親のことでもあり、死後も残っていた負債や人間関係に彼女は苦しめられ、時に思い出の中にひたることで常にその存在は解き明かすべきもの、理解すべきものとして彼女の側に常に存在している。母親はなぜ能力を私に遺したのか、母親は実際どんな人間で、自分を妊娠し育ててきた時に何を考えていたのか……。それと同時に語られていくのは、彼女自身が母親になる過程だ。

母親の死をきっかけとして、これまでろくに男と付き合ったこともないままに子どもがほしくなり、相手がいないにも関わらず人工授精によって妊娠をしてしまい、一緒に子どもを育ててくれる伴侶を探す婚活が物語のメインパートになるのだ。能力に振り回される話だと思っていたから最初は意外だったが、身体の中で別の生命が育ち、今まさに自分が母親になりつつある状況は、そのまま自分の母親を理解していく過程と密接にリンクしている。

普遍的な物語

トニ・ビーチャが受け継いでしまう能力は確かに物語中では明確に異能と表現されるものだが、実際は人間である以上誰であっても「才能」を受け継いでいるのだろう。遺伝子は嫌でもその人間の能力をある程度規定するし、我々は育ての親を含めて多くの「周囲の人々」から贈り物を受け取って、影響を受けながら育つ。

それはいつだってわかりやすい形で贈り物として現れるものではない。時間が経って、そういえばあの時のあれは──と事後的に認識されるものもあるし、むしろそういうものの方が多いのかもしれない。事後的に了解された贈り物は、時と場合によっては「返す」ことができなくなってしまっている。既に相手がいないというのはその最たるものだが、そもそも相手がわからない場合もあるだろう。本を読んで値段以上の価値を受け取った時もそうかもしれない。

そういう時に、どうすればいいのか──本書は、贈与をめぐるさまざまな側面を一人の女性が母親へと至る物語を通して描いているが、その実中身は普遍的な「受け取り、受け渡していく普通の人の物語」なのだ。渡し渡され人生は続いていく──それが最も端的な形が現れるのが、親子という関係性なのかもしれない。

ちなみに、本書は世界幻想文学大賞およびネビュラ賞の最終候補になったそうだが最近のことかとおもいきや1999年のことだそうだ。なぜ突然翻訳されたのかよくわからないが、別に時代に左右されるような作品ではない。

余談。セリフ回しについて

出てくるキャラクタらはみんな魅力的でセリフ回しはどれも洗練されている。なんというか、「なさそうでありそうなギリギリのところをついてくる」セリフ回しが凄い。たとえば、母親の葬式に幼なじみのグレッグが着て発生するやりとりなんか、読んでいて思わず笑ってしまう『「いま”喪失の悲しみ”のどの段階? 怒り? 拒否? 落胆? 交渉?」「受容ってのもあった気がするけど」「いやいや、それは早すぎだろ。ばかいっちゃいけない」』元ネタは死の受容の五段階説だが、際どいネタをぶっこんでくるよなあ。