基本読書

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世界の全人口を抹殺する──『地球礁』

地球礁 (河出文庫)

地球礁 (河出文庫)

カルト的な人気を誇るラファティ、初期の長篇作品がこの『地球礁』である。

2002年に単行本として出ていたものが今回素晴らしい装丁で文庫化された。ソローキンの『青い脂』も最近文庫化してくれたし、河出文庫さまさまである。

ラファティはその評判からして読もう読もうと思いつつなんとも手の出しにくい作家であった。ラファティを称える人々はほとんどアイドルへ熱狂したファンのごとしであって、紹介を聞いてみるとやたらと難解──ともまたちょっと違い、とんでもなく変である、よくわからない、何でも起こりえることが伝わってくるぐらいである。訳者の柳下さんはあとがきで『レイフェル・アロイシャス・ラファティはアメリカSF界でもっとも独創的な作家である。』と言い切っているほどだ。

で、これがたしかにとてつもなく変てこな話である。わけのわからない異星生物が出てきて地球で暴れ回り、詩で世界を改変しながらやたらとめったら新しい設定が湧いてくる。何か大きなプロットが提示され(人類皆殺し)、なるほどこの筋にしたがって進んでいくのかと思いきやほとんど思いつきで書いているんじゃないかと思うような無軌道ぶりでとんでもないことが起こり続け、ただその描写の一つ一つはたまらなく心地が良く、自由奔放に紡がれていく情景はただただ楽しい。

あらすじ

一応筋なるものを紹介してみるとするならば、これは地球にいるプーカ人の一家(デュランティ家)の悪ガキ6人兄弟(誰にも見えない兄弟バッド・ジョンを入れれば7人)が、人類皆殺しを企図し、がんばって実行しながらもちょっと大人へとなる話ということはできるだろう。兄弟は最年長が9歳、最年少が6歳のお子様たちである。

7人兄弟の両親は地球へ巡礼にやってきた際に7人の種付けをすませ、兄弟はみな地球でその生を受けることになる。両親らは地球アレルギーによってみんな苦しんでいるが、兄弟らは地球生まれのために耐性があるようであった。そもそも、プーカ人とはいったいなんなのか? そんなことを考えたところで仕方がない。

どこかの惑星のどこかの人々という他ないだろう。見た目は地球人とあまり変わらず、詩によって世界を改変し、矢鱈と野蛮ですぐ人を殺し、死は終わりではなく、予知や直観の機能が存在するようで、とにかくめちゃくちゃだ。両親らはまだ「あんまり人を殺したりしてはいけないよ」というが、恐らく近いうちにみな地球アレルギーで死ぬだろう。では、残された子どもたちはどうなるのだろうか? 

「だがな、フランク。あの子たちは本当に地球に適応しているわけじゃない。今ははっきりわかる。すると問題は、『地球はあの子たちに適応できるんだろうか?』」

真っ先に母親であったヴェロニカが地球アレルギーで亡くなってしまうが、子どもたちはそんなことではヘコタレない。というより、親をすらも積極的に殺しにかかる。6人の子どもたちは物語早々に、地球をずっと住みやすい場所に変えるために両親らを含めた全人類の抹殺を決意するのだ。

 もし世界にたった六人の(あるいはバッド・ジョンも数えれば七人の)人間しかいなければ、地球もずっと住みやすい場所になるだろう。そのためには地球上残りすべての人を殺すだけでいい。これには、もちろん、地球人だけでなく、地球アレルギーにかかった年長のプーカ人も含まれる。
 デュランティ家の年長者──および地球にいるわずかばかりのプーカ人──は想像力豊かに慈悲深く殺してやらねばならない。「ばーん! 誓ってあたしそういう殺しは大得意!」とヘレン。「どっちもあふれんばかりだもん」老いた連中はこの地では不幸だった。そして連中がいなければ、たぶん子供たちもずっと楽しいだろう。

めちゃくちゃだな!? と思うが何しろ子どもたちには必殺の、空想を現実化するバガーハッハ詩が存在する。全人類を一度に詩で消滅させるのはさすがに厳しいのか実行されることはないが、とりあえずの標的として両親らをブチ殺す詩をあっというまもなく(計画が成された1ページ後に)流麗に歌ってみせる。

詩を歌った結果はしばらく描写されることなく、いったいどうなったんだろうと読み進めていくと、プーカ人の年長者が出てきて曰く『「おまえたちのバガーハッハ詩はこっちの詩で打ち落とした。血族に詩を使ってはいかん。』「そんなドラゴンボールみたいなことができるんかいや!」。とにかくここまでで摩訶不思議な話であることは了解してもらえたと思うが、子ども達はボートに乗って世界の全人口を抹殺するためにまずは廃炭鉱にある5つの王国を征服しに向かうことになる。

何がおもしろいのか

これがおもしろいのかと言われれば、僕にはめちゃんこおもしろかった。プロットが──というよりかは、まるで「子どもの空想がそのまま具現化したような」世界が。

『物語はそのままでは受けとめられないことを比喩として語る。だけどそのうち三つはすでに起こったことであり、ちびっこヘレンの予言話はまさにその夜実現することだった。』『寓意や象徴はプーカには似合わぬものだった。すべて起こったことを文字通りに記したものである。』とは本書から引用した言葉だが、実に示唆的である。

寓意や象徴、比喩とは違って、この世界で起こる数々の変異は、まるで子どもが本気で闇夜の中に幽霊を見出すかのように「嘘偽りのない本気の現象」だ。子どもたちは本気で全人口の抹殺を望み、詩を歌うことで数々の超常現象をそのまんま現実として現出させてみせる。僕が小学生の頃した想像、教室の最後尾席からかめはめ波を撃ったら全員殺せるんじゃないのか? レベルの想像を、そのまま現実にしてみせる。

幾つも出てくる世界を改変する詩はそれ事態が楽しいし、子どもたちのぶっ飛んだ思考の流れは愉快極まりない。楽しいこと、無茶苦茶なことが、面倒くさい積み上げや建前をなしにどんどん起こる。そこに多くの理屈はいらず、ほとんど直感的に「ただ、楽しい」部分へと一直線にアクセスしてくる。

そんなことをすればあっという間に物語として破綻してしまいそうだが、ラファティはそれを見事に制御しているように見える。プーカ人の年長者らはどんどん死んで、無茶な望みと冒険によって状況が混沌化していく中で、子ども達はたしかな変化を経験していく。常に変てこなことが起こり続けるこの世界において、そうした「変化」を真面目に描くのは相当難しいようにも思うが、見事繊細にその瞬間をとらえ、描き出し、終着へとたどり着いてみせた最後の子ども達の姿はとても愛おしい。

一方で物語がちょっとでも停滞してきたと思ったら、作中人物が突然『「ちょっと中だるみ気味だな」とひとりごちた。「客が退屈しだす前に、さっさとカーテンをおろしたほうがいいな。俺が観客だが。」』といって突然狂人に変貌して物語を締めにかかる! 緻密な計算をしているようであり、同時にこうした「ちょっと退屈になってきたからなんか起こすか」というライブ感もありと、捉えたと思ったらするっと抜けていってしまうような摩訶不思議な長篇である。だが、それがいいのだ。