基本読書

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狂気と正気の区別がつかなくなった世界──『キャッチ=22』

キャッチ=22〔新版〕(上) (ハヤカワepi文庫 ヘ)

キャッチ=22〔新版〕(上) (ハヤカワepi文庫 ヘ)

キャッチ=22〔新版〕(下) (ハヤカワepi文庫 ヘ)

キャッチ=22〔新版〕(下) (ハヤカワepi文庫 ヘ)

第二次世界大戦を題材に扱った作品は数多くあるが、本書はその中でもとりわけ変てこな作品であるといえる。イタリアの小島、ピアノーザ島に派兵されたアメリカ空軍爆撃隊に所属している戦争中の兵士らが描かれるが、戦闘中の描写はほぼなく、描写の多くは逃れえない死を前にして人々が発狂していく見事な狂い様である。いわば戦場を描いた日常ものといえるだろう。

物語は数十ページほどの細かい章でわかれており、その多くは「1 テキサス氏」「2 クレヴィンジャー」のように人名でわかれ、その中には軍医も居れば牧師もいて、大尉も居れば中尉も少佐も大佐も将軍もいるが、みな何かが狂っていることは共通している。常に話の中心かあるいは端っこに出てくるのが主人公ヨッサリアンだ。

彼は仮病や狂気を装い病院に引きこもり、どうしても出撃したくない任務の場合は部隊員が下痢になるよう食事に細工をして、なんとしてでも自分が生き残ることを優先している。彼は本当に狂っているのかいないのか、その問いかけに意味があるとも思えない。誰もが狂っている世界では、正気でいることもまた狂気であろう。だが狂っていようがなんだろうが、その生存への渇望は本物であった。

「おまえは空軍と歩兵部隊の関係について話をしているが、おれはおれとキャスカート大佐との関係について話をしている。おまえは戦争に勝つことを話しているが、おれは戦争に勝ってなお生き残ることについて話しているんだ」

無数のキャッチ=22

彼にとって不幸だったのは、彼がいかに狂気を装い、規定の出撃回数を満たしても(それは最初40回だった。満たすと上限が引き上げられる)、あらゆる事象に勤務免除が阻まれることである。狂人であれば戦闘任務が免れるが、キャッチ=22によって『戦闘任務を免れようと欲する者はすべて真の狂人にはらず』と定められている。狂えば免れるが、免れたいというと真の狂気ではないと言われてしまう。

ヨッサリアンの部隊はこれに限らず、キャッチ=22的事象に襲われていく。狂ったメイジャー少佐は、「自分が大隊長室にいる間は誰にも会わない、大隊長室から出たら大隊長室で会っても良い」と部下にいいつけそれを忠実に実行する。結果的に誰もメイジャー少佐に会うことはできない。バカにしているのか? と誰もが思うがこれは現実である。ヨッサリアンが結婚したがるルチアンは、ヨッサリアンが狂っているから結婚したくないといい、狂っている理由は彼女と結婚したがるからだという。

 ハングリー・ジョーは気が狂っており、それをだれよりもよく知っているヨッサリアンは、彼を助けるためにできるだけのことをしてやった。ただハングリー・ジョーはヨッサリアンの言うことを全然聞き入れようとはしなかった。ハングリー・ジョーが聞き入れようとしないのは、ヨッサリアンのやつは気が狂っている、と思い込んでいるからだった。

何もかも、誰も彼もが狂っている。それも、みなそれぞれ違った理由で狂っているのだ。『マクワットはおそらく大隊じゅうで最も気の狂った戦闘員であった。なぜなら、彼は完全に正気でいながらちっとも戦争をいやがらなかったからだ。』

一歩間違えば即死する危険任務、終わったかと思えば引き伸ばされる攻撃回数、狂ったとしても任務が免除されない謎の軍規、狂っていく部隊の人々──。異常な悲劇が連続する中、真正面から狂気を描くそのスタイルは喜劇的で(引用部を見てもらっていればわかると思うが)非常に笑える作品でもある。登場人物が狂っているさまが淡々と、それも上下巻合わせてミッチリと描かれていくために、その常軌を逸脱した状況が笑いを誘発するのではあるが、悲劇を覆い尽くすことはできない。

なぜなら、どうしようもなく、次々と人は死んでいくからだ。たしかに読んでいると笑えるが、同時にそれが本物の不条理に遭遇した、逃れようのない狂気からきている逸脱であることもどうしようもなく了解される。

さまざまな形で描かれていく狂気

ほとんど滑稽なほどに強調されて描かれる狂気は、時にそれを客観席に見つめているはずの、読者の現実性をもゆさぶってくる。たとえばとある飛行機が墜落し、そこに乗っていたことに書類上なっている人物、その当人が地上でその状況を見ているということが描写される。地上にいる多くの仲間はなぜあいつは脱出しないんだ」と言い合うが、その当人は「おれはちゃんとここにるよ」とその横から語りかける。

「あとふたり脱出だ」とナイト軍曹が言った。「マクワットとダニーカ軍医だ」
「おれはちゃんとここにいるよ、ナイト軍曹」とダニーカ軍医は哀れな声で告げた。「おれは飛行機に乗っていないよ」
「なぜあいつらは飛び出さないんだ」とナイト軍曹は大声で自分自身に訴えように言った。
「なぜあいつらは飛び出さないんだ」
「わけがわからん」とダニーカ軍医は唇を噛みながら嘆いた。「まったくわけがわからん」

その後も誰もがこのダニーカ軍医の実在を目にしながら、書類上は死んでいるのだからあなたはもう死んでいるのだ、と直接言ったり、あるいは見なかったことにする。ほとんどコメディのような展開だが、あなたは死んでいますと告げる人々も、本気で俺はここにいるんだぞと主張し続け、最終的には誰にもその生を認められずに自分が死んだことを受け入れてしまうダニーカ軍医も心の底からの絶望に沈んでいく。

あまりにそれが真正面から描かれていくために、ひょっとしてこれは本当にダニーカ軍医は死んでいるのではないか、実在を少なくとも三人称視点からは保証されている彼は、実はこの部隊の人々が見ている狂気の幻想を神の視点が取り込んでしまったものなのではないか=神の視点さえも狂っているのではないかとさえ思えてくる。

おわりに

本書では時系列さえもシャッフルされ、一直線に進んでいくわけではない。断片的にエピソードが描かれ、正気と狂気が判別不可能に入り混じり、起こる全てが不条理そのものの世界に放り込まれるのは、まるで彼らの人生を追体験していくかのようだ。

誰もが狂っているが、その中でも一人、生き延びることに異常なまでにこだわったヨッサリアンは決定づけられた死といかにして向き合うのかという一つの輝かしい姿勢を教えてくれる。綿密に描きこまれていく、読者さえも巻き込んだ迫真の狂気、不条理極まりない軍規、狂った上司や同僚にパラドックスめいた状況、どれ一つ取り上げてもガッツリと引きこまれ、読み始めたら止めることができないだろう。