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「科学と信仰」の葛藤を描いたオカルティックSF──『彼女がエスパーだったころ』

彼女がエスパーだったころ

彼女がエスパーだったころ

主にボードゲームを扱ったデビュー作『盤上の夜』以後、新作を出す度に「今度は火星で精神医学!」「今度は音楽か!」と随分とかけ離れた題材を扱ってきた宮内悠介さんだが今回はなんと疑似科学を扱った全6篇の連作短篇集である。これがとてつもなく居心地の悪い、割り切れない世界を描きながらも──最後は見事に抱擁してみせる作品で、『ヨハネスブルグの天使たち』以来3年ぶの短篇集ということもあって「やっぱ宮内さんめちゃくちゃ短篇を書くのうまいなあ」と大満足した一冊である。

全体のざっとした紹介

全体をざっと紹介すると、第1篇「百匹目の火神」は火の使用を覚えた猿が、その技術を伝え各地を歩くことで猿たちが放火を始めたら──という共時性を扱った短篇。第2篇は容易くスプーンを曲げてしまう女性千晴と、彼女の夫の転落事件を描く「彼女がエスパーだったころ」。3篇目の「ムイシュキンの脳髄」は最もSFらしい短篇でオーギトミーと呼ばれるアップデートされたロボトミー的手術を受け、暴力衝動を消し去られた男性が殺人事件を起こし得たのかをミステリ的に描く。

4篇目は水にありがとうと言って汚染水を浄化しようとする人々が、その主張にそれっぽい理屈を背景にまぶしとある目的のために人をだまくらかす様を描く「水神計画」。5篇目「薄ければ薄いほど」は死へと向かう苦痛をやわらげ、生をまっとうしようとするホスピスでの自死(殺人?)事件を扱ったもの。6篇目は記者の元へ2篇目のエスパーから連絡がきてアルコール依存症者匿名会へ通う友人についての相談を持ちかけられる「沸点」。いちおうここで綺麗にこの疑似科学シリーズを締めてみせる。

これは小説だから世界中のスプーンを全部曲げる本物の超能力者が出てきたり、水に語りかけることで水を操作してみせる操作系の能力者が出てきてもおかしくないが、あくまでも本書のリアリティレベルは現実ベースであってスプーンは本当に超能力で曲がっているかもしれない──と考える余地が残っている程度である。

本書ではこれら疑似科学を単に間違っているものとして断罪的に描くのではなく、かといって肯定的にでもなく、「もし、それが目の前で起こっている事態であったら」を実体験するかのように記者の目を通した擬似ドキュメンタリー風に描かいていく。

居心地の悪い読後感

これがまたえらく居心地の悪い読後感をもたらすのだ。

「どう考えてもトリックとは思えない」ような状況でスプーンが見事に曲げられる短篇。偶然とは思えない「符合」が次々と重なっていく短篇。ただの塩水を治療効果のある水として渡すことで「治る」という信仰を与えてやると、実際に人々の安心に大きく寄与している短篇──などなど、それがバカにされる他人事の文脈で提示されていれば「トリックだよ」とか「騙されているよ」といえるが、作中の記者の目を通して「体験」していく様は一言で言えば「理屈で割り切れない心地悪さがある」。

何しろこちとら科学信者として、概ね疑似科学とはよろしくないもの、その裏にはトリックが必ずあって何らかの利益をもくろんだ意図が潜んでいるのであるという前提を持っている。そんな僕であっても、「トリックがなさそうな状況で」スプーンがめきめきと曲げられたら信じないとは言い切れない。避けられぬ死を目の前にして、治療効果のある奇蹟の水を求めないとはその時になってみないとわからない。

読み進めていくうちに、「僕は果たしてこの状況にあってどれだけ科学リテラシーにのっとって物事を判断できるだろうか、あるいは、科学リテラシーを持ったままどうやって信仰に向きあえば良いのか」とついつい考えこんでしまう。

科学全盛の時代になってくるとだいたいなんでも科学的に正しいのか、理屈が通っているのかといった話になるが実際問題世の中に割り切れるものなどどれだけあるのかと思う。「死」なんてものはその最たるもので、誰でも死ぬんだからお前もおとなしく死を受け入れろ、受け入れなくても無意味なんだからと「うなずくほかない理屈」を言われたってはいそうですかー! と割り切るのはとてつもなく難しい。それがいかに道理に合わなかったとしても──死にたくないもんは死にたくないのである。

「薄ければ薄いほど」はそんな割り切れない死といかにして対抗/向き合うのかをホスピスを舞台にして描いている。『「わたしたちの使命は、スピリチュアルな問題も含めて、入居者を全人的にケアすることです。宗教を切り離すというわけにはいきません。ホスピスとは医療と信仰の接点であり、逆にいえばホスピスと政教分離は相性が悪いのです」』それはそうなのだろうが、科学と宗教、その二つは端的にいって相性の悪いことが多い。死への恐怖を紛らわせるために、時として科学的な事実さえも覆い隠すべきなのか──そうした葛藤の中にこの物語はある。

この連作短篇を読んでいくとどうしてもそうした「科学と信仰」の狭間に思いを馳せぬわけにはいかない。──とはいえこれが、全体を通してスッキリしないうつうつする感じの短篇集なのかといえば、とてつもなく意外なことに最後の最後にはかなりさわやかな気分に反転させてくれる。この反転があまりにも鮮やかなのでついつい笑ってしまったぐらいだ(もちろん、肯定的な意味で)。

ミステリやSF

本書に関してはそういったえーと、テーマといっていいのか一貫した描写面とは別に純粋にスペクタクルやミステリとしての出来が良いのも素晴らしい。

「百匹目の火神」は火を扱うことを覚えた猿が次々と増えて人間圏で放火をしていくのはパニック小説めいたスペクタクルがある。「ムイシュキンの脳髄」で扱われる患者ごとに核磁気共鳴画像法と機械学習法を組み合わせた「特定の機能部位を突き止め、その一点のみを破壊する」オーダーメイド手術はその技術的な背景描写もさることながら、暴力衝動を削除されたはずの男は殺人事件に関与している/できるのか──? という問いかけで展開する、SFミステリとして素晴らしい出来である。

全6篇、230ページほどと読みやすい(ただし飲み込みやすくはない)短篇集なので宮内悠介作品がはじめてという人にも広くオススメしたい一冊だ。