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「科学する人生」とは何か──『右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る』

右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -

右脳と左脳を見つけた男 - 認知神経科学の父、脳と人生を語る -

著者であるマイケル・S・ガザニガは書名にも入っているように認知神経科学を創りあげた(名付けた)人間である。右脳と左脳がそれぞれ役割を分担しながら別個に働く現象を発見し、以後分離脳研究を中心として驚くべき成果を次々と生み出してきた。

本書はそんな輝かしい人生を送り、現在70半ばを超えた著者が語る自伝/回顧録である。自伝と一言でいってもいろいろあるが、本書では家族や生い立ちの話はそこそこに、「科学する人生」とは何かを一貫して問いかけた読み物として成立している。

その一つの答えとして、『科学の実験の合間には、科学者の送る生活に左右されて多くの紆余曲折が生じるものだ。科学は、このうえなく社会的な過程から生まれるものなのだ。』と語っているように、自分の人生の要所要所を振り返り、多くの人間と交流を持ち、次々と行動を起こすことで化学反応を起こしていく様の描写は自伝/回顧録という形式をとっているがゆえに描ける「科学する人生」の見本といえる。

分離脳研究とは何か

著者らが行ってきた分離脳研究とはどのようなものなのか、ということを簡単に紹介しておこう。これはてんかん発作を抑えるためにかつて行われていた右半球と左半球をつなぐ脳梁を切断した分離脳患者を対象とした実験がわかりやすい。つなぐものがなくなってしまうので情報のやりとりが行われず右半球と左半球が別々に機能するためにそれぞれがどのような得意分野と苦手分野を持っているのかがわかるのだ。

たとえば分離脳患者に目隠しをして右手に物を持たせ、「何を持っていますか」と質問すると、常に正確に答えられる(言語を司る左半球に情報が送られるため)。しかし物を左手に置き換え、同じ質問をすると言語を司る側ではない右半球に情報が送られるため患者たちは名前を答えられなかった。右半球側に絵をみせたりして視覚情報を送っても、言葉で「何をみたのか」を正確に答えることができない。

とはいえこれも奥が深くて、患者は見かけ上「統合されているように見せかける」技術を習得していく。たとえば右半球側に「赤」をみせているのに分離されているため推測で「緑」と答えるという間違いを数回繰り返していくと、「みど……」と言いかけた段階でやめて「赤」と正しく答える、といったことが行えるようになっていく。

これは左半球が推測して発したみど……といった間違った答えを自身の聴覚でとらえた後、右半球からの指令でうなずいたり肩をすくめたりといった「まちがってますよ」合図を出すことで「別の正解色に乗りかえる」技術を習得してしているのだ。脳が機能を損傷しても別のやり方で元の機能を復活させる可塑性は近年研究が進んでいるが、この事例は「技術によって直ったようにみせかけている」(それも患者本人はそうとは意識していない)わけで、依然としておもしろい事例だ。

科学する人生

興味深い事例をあげていったらキリがないので終わりにするが、面白いのは著者がその人生の中で多くの人間と関わって、研究に活かされていく過程そのものである。

たとえば、著者がウィルスの研究でサルの個体識別をする必要にかられ、どの個体なのかを知らせる電波信号装置を作成しようとしている時にあのリチャード・ファインマンがやってきて「もっと簡単な方法がある、サルの体重にばらつきをつくればいい」といってすぐ去っていった話は個人的にお気に入りのエピソードだ。

「なるほどファインマンさすがだな」と読み進めたら、その後著者の師であるスペリーがやってくる。著者が雑談の中でファインマンのアイディアを伝えるといったん立ち去った後にすぐに戻ってきて「サルは物をつかんで逃げまわったり、ズルを必ずするから体重を正確にはかれない、だからうまくいかない」と言ってまたすぐに立ち去ってしまう。結局やり方は一切変わらなかったわけで、研究に直接役に立っていないエピソードなのだが、こうした何気ない日常のワンシーンには「科学の実験が日常的に行われている現場の空気」が端的に現れているように思う。

もちろん本書の核となるのは科学だが、科学のあらゆることが始まったとき、私はこうした豊かで活気にあふれ、いろいろなものが混ざり合った世界に住んでいた。家族からも、カルテックの比類ない神秘的な雰囲気から、カルテックの人々から、ロサンゼルスとその周辺の町に住む人々から、さらには地球上でもっとも魅力的な人間を研究する機会を与えられた信じがたい幸運から、さまざまな影響を受けた。

と著者自身が語っているように、ここにあるのは迷いなく研究人生に邁進してきた一直線の人生などではなく、ウロウロと寄り道をしながら、周囲の環境や人間関係から大きな影響を受け、時に失敗をし時にたとえようのない幸運にめぐまれた、「迷い、常に周囲からの影響を受けながら進む、人間としての科学者」の姿だ。

こうした寄り道的な部分というのは要約が不可能だからこそ価値があるともいえる。そうした普通の科学ノンフィクションを書くときには省かれてしまう、しかし重要な部分を描いてこそ、「科学者であること」を伝えることができるのかもしれない。

どんなときでも、私たちはおおいに興奮した。どんな現役の科学者や学者も、さらに言えばどんな探偵でも、何かを発見したときの感情の高まりを知っている。自然界の秘密がもうひとつ明らかになった。しかも自分がその場に、最前列に座っている。わくわくする瞬間だった。

と、まあこんな感じで本書は、分離脳研究の総括としておもしろいのはもちろん、科学する人生を歩むことの苦悩と喜びが敷き詰められている一冊だ。科学者の自伝/回顧録ってその要約不可能性ゆえにおもしろさを記事では伝えにくいんだけど、読むとその密度がよくわかるはずだ。