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映画の売り方──『ジブリの仲間たち』

ジブリの仲間たち (新潮新書)

ジブリの仲間たち (新潮新書)

ジブリのプロデューサー、鈴木敏夫さんが今まで「どのようにして映画を売ってきたのか」をわりと率直に語っている聞き書き本(喋った内容を元に構成されている本)だ。ジブリは制作部門を解散したし、鈴木敏夫さんも忙しい日々が終わって抜け殻のようになっているんじゃないかと最初は思っていたが、こうして本を出したりガルムに関わったりと忙しい日々を送っているようである。

「ジブリの仲間たち」と書名にあったので、思い出語りなのかと思っていたのだが、内容はほぼジブリ作品の宣伝をどのようにやってきたのかに集約されている。作品の内容にはあまり文章を割かず、ジブリの話でありながらも宮﨑駿や高畑勲といった代表的な両監督はあくまでも一登場人物のような形だ。その代わりに、あまり表に出ることはない博報堂や電通、各映画の時にタイアップした企業の担当者、主題歌担当者、コピーライター──といった面々を含めた「仲間たち」の物語になっている。

あまりプロデューサーサイドの話を読まないので、知らないことばかりでおもしろい話が多かった。良い作品をつくるのはもちろん重要で難しいことだが、映画館を用意する「配給・興行」、来て貰えそうな人々に呼びかける「宣伝・広告」はそれぞれまったく別の種類の苦闘がある。それもプロデューサーとはいっても電通なら電通、ジブリならジブリで自分達の利益を守らなければならないので、作品を客に届ける前段階、内部でのごたごたの段階でどのように主導権を握るのかという難しさもある。

たとえば、毎回映画のコピーやフレーズが配給やタイアップ先で問題になる。「風の谷のナウシカ」では最初「人間はもういらないのか?」というキャッチが提案されるし、タイトルも「風の谷じゃ意味がわからないから『風の戦士ナウシカ』のほうがいい」という意見が出てきたりもする。もののけ姫では『東宝では、新聞広告第一弾の「人はかつて、森の神を殺した。」というフレーズが問題になった。宣伝プロデューサーの矢部ちゃんは、「東宝の映画の宣伝で"殺す"という言葉は使ったことがない」と反対していました』などとどうでもいいことで(個人の見解)議論になっている。

ジブリサイドのプロデューサーとしては、そうした宣伝のために行われる無粋な意見や関係各所のジレンマから作品を守らねばならない。とはいえ、ジブリサイドとしてもひとりでやれるわけがなく、莫大な費用がかかる劇場映画作品製作において毎度「もう一度映画がつくれるだけの資金」を収入として稼ぎ出す必要もある。そこで鈴木敏夫さんなりの「もう一度映画をつくるための売り方」が現れてくる。

そのやり方には特徴が──というよりかは、お決まりのパターンがある。まず作品を徹底的に分析し、同時に映画が公開される時代との接点、いったいどんな層に観て欲しいのかを考える。それが決定できたら、そうした層へと向け、また作品の内容を的確に現したキャッチコピーをつくる。そこまで出来てしまったら、あとはタイアップするなり広告を打つなり、各地の映画館を回ってイベントをやったり、どのようなポスターをつくるのかを考えたりといった個別具体的な事例へと移行していく。

プロデューサーの仕事というのは探偵業と同じなんだ。その作家が何をしようとしているのかを探る。一方で、現代というのはどういう時代なのかを探る。それをもとにどう宣伝するかを考えなきゃいけない。映画というのはストーリーを売るんじゃない。哲学を売るんだ

この「探った」あとには無数のパターンがあって、ここが読んでいておもしろいところでもある。たとえば『ハウルの動く城』では「宣伝しない宣伝」といってあまり作品の内容をオープンにしない形での宣伝を展開するし、『もののけ姫』では最初から当時は類例のほとんどない60億円の配給収入を目標に掲げゴリゴリの宣伝で押し切ろうとするなど、一作ごとにすべて違った「売り方」で展開していく。

単純には「売りにくい」作品もある。『風立ちぬ』は「お客さんが宮﨑駿に求めるものとは違う」、ただつくるべき価値のある映画であった。『かぐや姫の物語』もアニメーション作品としての出来とは別に、題材からして現代のお客さんが興味を持つかというと難しい。そういう二つの「企画段階からして客を呼ぶのが難しい作品の宣伝」として「同時公開」を考えだしたというのも、「無粋/下衆だなあ」と思う一方で売り方としてはたしかにものすごいことをやっているなと感心してしまう。

宣伝のやり方は一つではないし、時代に合わせて新しい手法も、新しい仕組みもあらわれてどんどん変わっていく。そこには作品をつくるのとはまったく別種の苦悩が現れてくるからこそおもしろい(結局同時上映は失敗してしまうわけだが)。

おわりに

そもそも鈴木敏夫さんは作品内容、企画段階から関わっていることが多いのと、「映画があたることを考える」ことよりも「高畑さんや宮さんがいい映画を作れる環境を整えること」を考え続けてきた人だ。一般的なプロデューサーとはまた視点が異なるのだろうが、一人の映画を売ってきた男の記録として大変興味深く読んだ。