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過小評価されてきた進化──『進化は万能である:人類・テクノロジー・宇宙の未来』

進化は万能である:人類・テクノロジー・宇宙の未来

進化は万能である:人類・テクノロジー・宇宙の未来

読み始めた時は、マット・リドレーによるインテリジェント・デザイン(ID)論への過剰な反論、いわばドーキンスの『神は妄想である―宗教との決別』に相当する「それだけ強い言葉を使う必要のある状況なんだろうけど、日本読者からするとピンとこないなあ」的な本なのかと思っていたのだが、最後まで読むとだいぶ印象が異なる。

進化は私たちの周りのいたるところで起こっている

主張は至極シンプルな、『進化は私たちの周りのいたるところで起こっている』というものだ。ようは「みんな人間が意図的にデザインしたといろんな物事を捉えたがるけど、偶然やそこから結果的に生き残った自然淘汰の力を過小評価しすぎているんじゃないの」という話である。それだけであれば「まあ、たしかにそうかもしれんなあ」と思うけれども、本書がなかなかに凄い/挑戦的なのは、題材を宗教から経済、政治にテクノロジー、果てはリーダーシップにまで広げていくところにある。

最終的には世界の所得の増加も感染症の消滅も70億人への食料供給もうまくいったことは全部『偶然で予想外の現象で、こうした大きな変化を引き起こす意図のない無数の人々によってもたされた。』ものであり、第一次世界大戦、ロシア革命、ヴェルサイユ条約、世界大恐慌、ナチス政権などうまくいかなかった事例はたいてい、『人為的で、トップダウンで、意図的な物事にまつわるものだ。』と結論づけてみせる。

そこまでいくと「ちょっとちょっと、それは話を広げすぎじゃない? というか、進化と意図をどう定義するかの問題にすぎないんじゃないの??」と待ったをかけたくもなるが、言っている事自体はわからなくもないというか、納得する部分が多い。下記ではもう少し具体的に著者が何を言っているのか紹介してみよう。

デザインと進化

「進化」の説明について、著者の言葉を借りれば、『進化は自然発生的であると同時に否応のないものだ。単純な始まりから積み重なる変化を示唆する。外から指図されるのではなく内から起こる変化という、言外の意味を持つ。またたいてい、目的がなく、どこに行き着くかにかんして許容範囲が広い変化を指す。』になる。

一方これに対立する考えとして述べられていくのが、「デザインや指示、企画立案を過度に重視する姿勢」だ。たとえば我々が持つ眼は、見るためにデザインされたとしか思えないぐらいに高精度で生存においてはとりわけ有用な器官であるから、「誰かが目的を持ってデザインしたのだ」と考えたくなってしまう。だが実際には、眼は自然淘汰の結果残ったものであり、何者かによる計画はそこには存在しないのだ。

著者はこの「デザイン対進化」という対立した考え方を、先に書いたように、道徳、経済、文化、言語、都市、企業とあらゆる部分へと当てはめていき、我々は「上からデザインすることで変化が起こっていくという考え方」に取り憑かれており、「下から推進される自然発生的に変化を起こす力」を過小評価していると指摘してみせる。

 したがって、現在のような人類史の教え方は、人を誤らせかねない。デザインや指図、企画立案を過度に重視し、進化をあまりに軽視するからだ。その結果、将軍が戦いに勝ち、政治家が国家を運営し、科学者が真理を発見し、芸術家が新しいジャンルを生み出し、発明家が画期的躍進をもたらし、教師が生徒の頭脳を形成し、哲学者が人々の思考を変え、聖職者が道徳を説き、ビジネスマンが企業を引っ張り、策謀家が危機を招き、神々が道徳を定めるように見えてしまう。

『私は本書を通して読者のみなさんを徐々に、人間の意図やデザインや企画立案という妄想の束縛から「解放する」ことができればと願っている。』など、かなり過激に宣言しているが、上記引用部の「デザインを過度に重視した事例」をざっと見渡してみて、いくつかそれは意図じゃないの? と疑問に思うところもある。たとえば、「発明家が画期的躍進をもたらす」とかである。意図の成果物のように思えるが。

発明も進化の産物なのか?

それについて解説する「テクノロジーの進化」の章では、ケヴィン・ケリー『テクニウム』を参照しながら、「各種発明品は、時代の進展、技術の発展にともなって、発明されるべくして発明されたのだ。」といってみせる。

たとえば、温度計には6人の異なる発明者がおり、皮下注射には3人、予防接種には4人いる。こうした同時多発的な発明は科学や芸術でも起こっており、と続けて事例を並べていくが(アインシュタインの研究も)、結局のところ結論は、「技術の進歩には個人の意図に依らない圧倒的な必然性がある」ということである。

世の中にはごく少数の物好きしかやらないような研究もあるわけで、すべてに適用はできないんじゃないのとも思うけれども、ムーアの法則を筆頭として、個人の意図とは無関係に進歩が容赦なく進んでいく現実もあるわけで、「細部はともかく大まかな傾向として」技術の進歩に必然性があるということならば特に異論はない。

いくらかの疑問点

と、こんな感じで経済の発展も文化の発展も教育の発展も進化の力によって変化してきたんだよと事例をいろいろと見ていって、最初に述べたような結論までたどり着いてみせるわけだけれども、やはりどうしても違和感や疑問点は残る。

たとえば教育について語った章では、現在の教育は特殊創造説的な思考に支配されている。まだ誰も試したことのない道としては、生徒や学生は上から押しつけられるのではなく学ぶよう促され、学生自身が主人となるような教育がある。と述べた後に、『教育を進化させようではないか』と書いて章を終えている。「進化させようではないか」って、僕はド素人だから専門家であるリドレー先生にご意見するなんて恐れ多いけど、教育はポケモンじゃないんだからおかしな言い方ではなかろうか。

著者の言葉を借りるなら進化は自然発生的なものであるはずじゃなかったっけ?……こんなのはただの揚げ足取りだけれども、ところどころで進化の力じゃなくて、リドレーの従来からの主張(トップダウンではなく、ボトムアップ的な手法が多くの物事を解決する)が前に出すぎていることによって、進化についての論点とその主張がごちゃごちゃになってない? と思った。僕は現在の教育には否定的で、生徒や学生自身が自発的に学べる環境づくりは大事だとは思うけれど、本書の言うとおりなら、意図して「させようではないか」なんて言わずとも勝手にそうなるはずである。

訳者あとがきでも『すべてに進化の観点を当てはめることには多少の無理を見て取る方もいらっしゃるかもしれない。おそらく、著者も批判は覚悟の上だろう。』と述べているように、ワクワクする大きな論を張っているだけに多少の無理はある、という前提で読んだほうが良いだろう。それにしてもこの問題、突き詰めて考えていくと自由意志の否定問題と同じような厄介な壁に突き当たりそうではある。

おわりに

歴史の変化が「上からの意図やデザイン」によって駆動されてきたという考え方に多くの人が取り憑かれているのは確かだし、見過ごされがちな、下から推進される自然発生的な「進化」の力にたいして強引にでも眼を向けさせたいという主張自体はよくわかる。僕も正直言ってまだ消化しきれていない一冊なので、折にふれて何度か読み返すことになりそうだ。最近も『セルフ・クラフト・ワールド』というSF小説を読んだ時に「これは進化は万能であるの話だなあ」とすぐに読み返してしまった。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp